現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

大豆の刈取りとユメマボロシノゴトクナリ


14日(水)
朝、大豆用の乾燥機のプラグのプラスチックのところが少し割れていたので、ホームセンターで新しいのを買ってきて交換。
午前中は、というか、昼過ぎまで大豆の刈取り。午後は刈った大豆を家まで運んできて軒下に干す。父と母が干されている大豆の鞘を踏んだり叩いたりして、大豆をはじかせてくれる。


昨日に続いて大豆を鎌で刈っては積み上げていき、あとで圃場に軽トラを入れて、荷台に満載して家に運ぶ、という作業をやっていて、いささか背中から腰にかけて筋肉が張っている。どうしても中腰の姿勢が多くなりますからね。
こういう繰り返しの根気仕事の肉体作業をしていると、不思議と脳は澄んできて(笑)、いや、濁ってきたのかもしれませんが、ふだんは考えないようなことが浮かんできたりするのです。今日は、ふいに「人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」というフレーズが浮かんできて、浮かんできたら頭から離れなくなりました。
このフレーズは織田信長が好んだという幸若舞の「敦盛」のフレーズらしいです。桶狭間の合戦の出陣の前、自ら謡い舞ったものとして有名ですね。当時26歳の信長です。
「下天」がむずかしいですよね。『大辞林』では、1.天上界のうちすべてに劣っている天のこと。2.人間界のこと。「人間五十年―の内をくらぶれば夢まぼろしのごとくなり」〈幸若舞・敦盛〉とあります。
「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり 一度生を得て 滅せぬもののあるべきか」と続きますから、無常観をうたったものだという話もありますが、桶狭間の戦いの直前に舞った信長としては、儚く短いものだからこそ死を恐れず思う存分にやってやるぜ、という高揚感があったのではないかとも思います。
もっとも僕は死を恐れずに思う存分に生きようと思ったわけではなくて、知らないうちに五十の半ばも過ぎ、なんとはなしにユメマボロシノゴトクナリというフレーズが浮かんできたのでした。


幸若舞というのはよく知らないのですが、敦盛は、『平家物語』の「敦盛の最期」を何度か読んだことがあります。ま、名場面ですね。


ちょっと一分間では無理がありますね(笑)。ま、でも、ストーリー展開は、そういうことです。



ああ、これいいですね。10分間ほど、聞きほれました。落語じゃないけれど「敦盛の最期」は言うなれば人情噺ではありますね、直実が主人公の。


平家物語』の「敦盛の最期」原文は、こちら。あるいはこちら。しかしなぁ、敦盛も、逃げていたのに、直実に「勝負!勝負!戻ってこい!」と言われて、戻って勝負してしまうところが、いかにも若者ですなぁ。泣けるぜ。


敦盛は17歳だったそうですが、信長は49歳で本能寺の変を迎えましたしね。夏目漱石も49歳。坂口安吾は48歳で、森鷗外は60歳。谷崎潤一郎は79歳。開高健は58歳でした。藤沢周平が69歳。太宰治は39歳で。芥川は35歳。梶井基次郎は31歳。うーむ。井伏鱒二が95歳。ま、何歳まで生きようが、すべてユメマボロシノゴトクナリですわな。



15日(木)
ぐっと朝方は冷えて、田んぼに撒いた籾殻の上に霜が降りていた。
朝からよい天気。午後は少し風が強くなったけれど。
午前中は今日も大豆を刈って、ちょっとづつ山にしていく。
午後は、手作業しているうちの様子を見兼ねたお隣が、スレッシャーを貸してくださった。スレッシャーというのは、いわゆる脱穀機というのか、脱粒機というのか、刈った大豆の鞘のついた茎を放り込むと、機械の中で鞘や茎やいわゆる大豆の殻と大豆を分離してくれる機械です。昨日までは、刈った大豆を家に持ち帰って、一日二日干し、父がムシロに挟んで足で踏んだり、母が棒で叩いたりして脱粒させて、これまた手作業で大豆の殻と大豆とを分けていたのですが、この機械で、ずいぶん楽になりました。ありがたいです。
しかし、なんですな、ぜんぜん大豆がたまってきませんな。なんとか来年のタネの分は採りたいのだが・・・。いやはや。


「初日から相撲をとって四連敗の横綱はいません!」とラジオの実況アナウンサーが絶叫。ああ、稀勢の里。がんばれ!
と思っていたら、今日から休場とのこと。昨日もそこそこ押していたので、頑張れたような気もするのだが。