現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

『Glenn Gould Plays Bach』と高村薫の文章


朝、お米の精米と発送。それから田んぼの畦畔の草刈り。
午後は大豆の圃場に入って、切ってある溝のあたりに大きく伸びてきた草を刈ったりむしったり。


アマゾンで買ったもう一つのグールドのCDは『Glenn Gould Plays Bach』。こんなタイトルになっていますが、中身はイギリス組曲フランス組曲フランス風序曲。昔、グールドの『ゴールドベルグ変奏曲』のCDが出て、初めて聴いた時、すごく感動して、何枚かグールドを買ったんですが、イギリス組曲フランス組曲、それぞれ二枚組になっていて、わりと高価だった記憶があります。それでその時は買えなかったのですが、今回、CDは四枚組で、お値段もぐっとリーズナブル。
イギリス組曲フランス組曲、それぞれが、バッハの音楽の中で、どういう位置にあるのか、よく知らないのですが、うーむ。難しいという噂のイギリス組曲ですが、グールドのピアノは軽快です。とっても軽快。ああ、こんな風に長女や次女がピアノを弾いてくれたなら(笑)。あ、フランス組曲も軽快。
しかし、バッハという人は、構成美の人なんでしょうか。グールドは指が小鳥の囀りのように動く人ですな。いいです。とてもいい。


Google 日本語入力 1.6.1211が配布されている。普段は「かわせみ」を使っているのだが、Google 日本語入力も侮れない変換能力。


先日の読売新聞に高村薫の「寸草便り」という文章が載せられていた。以下、その要約。

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私たちが当たり前のようにキムチやビビンバを食べるようになって、もうどのくらいになるだろう。戦前から在日の人々が定着している関西を除くと、日本全体ではこの十数年のことではないだろうか。戦前の日本による韓国併合から102年も経つことを思えば、ごく最近の事象だとも言えるし、日本の食卓の昨今の浸透ぶりを見ると、やはり長い文化的つながりを感じさせられもする。
いずれにしろ、最近の竹島領有問題のせいで日本人がキムチを食べるのをやめたという話は聞かないし、少なくとも韓国の食文化だけは私たちの生活に完全に根を下ろしたと言えるのではないだろうか。
戦前、この国には半島の人々への差別があった。戦後も、今度は日本が敗戦国に転じただけではなく、南北分断と朝鮮戦争を経た緊張が様々な形で在日社会に影を落としていたため、一般の日本人はなおも彼らと距離を保っていた時代が長く続いた。
そうした在日の隣人への複雑な感情は、その後も北朝鮮による日本人拉致や核開発問題などが障害となって、今でも決して解消されていないが、それでも十代から中高年まで、女性たちはもっと軽やかな感覚を持っているように見える。過去の歴史を知らないことからくる一方通行の憧れかもしれないが、日本の女性たちがイケメン揃いのK-POPに熱狂する心象に、古い世代が眉をひそめる理由はない。戦後67年たっても韓国と適切な相互理解を築けずにきた世代は、女性たちの無邪気な善意がいつの日か韓国人の日本に対する憎悪を溶かしていく可能性に、むしろ期待すべきなのだ。
とはいえ、そうしてなんとなく和解の希望を抱いていられた安穏の時代も、ここに来て終わろうとしているのかもしれない。 2000年以降、いちどは通貨危機で落ち込んだ韓国経済が飛躍的な発展を遂げる一方、日本経済は相対的に沈下した。そもそもの国情の違いもあるが、対外的な自信を高めた韓国は日本への負の歴史感情をむき出しにしつつあり、対する日本も、今や政治が口先だけの浅薄なナショナリズムを語って憚らない。おかげで歴史の影を知らない世代も、反韓に傾く人、文化と政治を素朴に切り離す人に二分されつつあり、韓流も一時の勢いはないと聞く。
そもそも、時々の為政者や国家によって恣意的に語られる物語が歴史だとすれば、一般にはどの国家国民にとっても史実など二の次である。いつでもどこでも正義は自国にあるのだ。その上で共存のための知恵を絞るか、武力で押さえ込むか、どちらかしかないのが国と国の関係というものである。
人や物の行き来があり文化の交流があっても、国と国の間では国境は一夜にして戦場に変わるし、経済的な結びつきがあれば戦争にならないということもない。そしてそうだとしても、市井は人と人との交流に希望を見出すしかないのだが、一方では、その同じ市井の底に片や植民地の憎悪、方や敗戦の失意のあることを、各々忘れる必要もない。むしろ、友好など千年早いと思い定めたなら、逆に知恵を絞り、細心の注意を払って共存の言葉を磨きながら、一日一日、平和を長らえさせられるのではないだろうか。
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高村薫にしては、文章の切れがない気がします。でも「いつでもどこでも正義は自国にあるのだ。」「むしろ、友好など千年早いと思い定めたなら、・・・」という所には迫力を感じています。
戦争は放棄するという立派な憲法を掲げているわけですから、それゆえに近隣からバカにされナメられるのではなくて、「名誉ある地位を占めたいと思ふ。」のであり、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」のでありますから、日本の外交は単純ではなく、むつかしかろうとは思いますが、そういうむつかしいことに立ち向かうことのできる知恵と勇気のある人に国政選挙のときには立候補していただきたいと、平和を誠実に希求し、家族の平穏無事と、国土がいつまでも美しくあらんことを願う百姓としては、切に思うところであります。


たまには日本国憲法を読み直してみるのも悪くないですね。今日は憲法記念日じゃありませんが。

日本国憲法
 前文
  日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
   日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
   われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

 第二章 戦争の放棄
   第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
   第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。