現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

あれこれ準備と宇根豊氏の文章


朝、犬の散歩の時、田んぼの上に雲のように霧がたなびいていた。いつものパノラマ撮影ではなく、四枚の画像をコンピュータで張り合わせて一枚にしてみました。


午前中は大豆を乾燥させる箱乾燥機を組み立てて、作業所の中の整理と掃除。
午後は車庫から田植え機を作業所の中に入れる。車庫に大豆を広げてるためです。
で、トラクタにロータリーと麦の播種をするシーダーを取り付ける。


夜になって風が強くなってきた。明日はどうも雨らしい。


先日の日本農業新聞に載っていた宇根豊氏の「彼岸花ナショナリズム」という文章。以下その要約。

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今年の夏の暑かった。おかげで稲刈りの時に彼岸花が邪魔で仕方がない。花を踏み倒したくないからだ。 稲が熟れるのは早まり、一方の彼岸花の開花は遅くなったからだ。本来なら、彼岸花の花が終わってから畦草刈りをし、その後に稲刈りを始めるのが習いだった。また近年の品種は早生が多くなり、稲刈りが終わった田んぼの彼岸花はわびしい。さらに悲しいのは、休耕田の伸び放題の草むらの中に見え隠れする赤い色だ。
ところが、先日もある人から「彼岸花にこだわっている場合じゃないでしょう。環太平洋連携協定(TPP)問題が大詰めにきていますよ」と忠告を受けた。つい私たちはナショナルな価値を優先するようになっている。国全体から見下ろす視点だ。
例えば、国境の島で百姓していた人が農業が成り立たなくなって、引き上げた。ところが誰も見向きもしなかった島の存在が、領海という経済価値で見直されると、俄然ナショナルな価値に格上げされ、そこに人が生きていた時は全く無関心だった国民までが「国土を守れ」と叫ぶようになる。
ナショナリズム愛国心)の土台が愛郷心であるうちは安心できるが、そこで生きている人間の情愛と切れてしまうと、時代の積極的な価値(今日では経済価値)に引きずられてしまう。したがって、国境から隔たった山間地や島々の田畑が荒れ果てていても、現代日本ナショナリズムは無関心である。
話を彼岸花に戻そう。彼岸花の咲き乱れる風景はナショナルな価値だろうか。私は愛郷を土台としたナショナルな価値だと断言したい。日本の農業を守るということは、彼岸花を守ることと切れてはならない、と主張したいのだ。一体誰が何のために彼岸花を植えたのだろうか。国土を美しくするためか。そんなことはあるまい。しかし、稲と一緒に渡来したと考えられているこの異国の花の塊茎を、私たちの先祖はわざわざ手に入れて、あぜに植えたのである。
救荒作物として、モグラよけとして、などという説明も成り立たないわけではないが、最も大きな動機は、この花が咲き乱れる世界を「きれい」だと感じたからである。そうそうでなければ、こんなに国中に植えるはずがないではないか。彼岸花はほんの一例に過ぎない。百姓仕事は生き物に対する愛情抜きにはなりたたない。その情愛が軽視され、無視されている国土に咲くナショナリズムなんて薄っぺらだ。
島々だけが国境の村ではない。この国の全ての村が「国境の村」だと考えるのが、まともなナショナリズムではないか。足元の彼岸花を訪れるアゲハチョウに目をとめ、この花のある在所をきれいだと思い続けてきた情愛と美意識を大切にしてほしい。国民、国家と言う単位でものを考えるときには、こうした足元からのナショナリズムが必要ではないか。ありふれた村で大切にできないものが、国境の村だけで大切にできるはずがない。
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「百姓仕事は生き物に対する愛情抜きにはなりたたない。」と、私も思います。その愛情が稲やら草やらを調べる好奇心になります。天気仕事で、自然相手の農業は、そういう気持ちがないとうまくいかないんじゃないかなぁ。それから田んぼの美しさが百姓仕事の根本の原動力やったりしますね、確かに。