現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

大豆の選別と出荷と業余


昨夜の真夜中の暴風にはまいった。ひょっとすると朝起きたら積雪しているかも、と蒲団の中で思ったりしていたが、積雪しているのは山の方ばかりで、このあたりはほとんど雪はなかった。
午前中はお米の精米など。午後は大豆の出荷。
大豆は出荷しようと1袋が30.6kgになるように調整して、袋に名前などハンコを捺したりしていくのだが、計量していると機械の選別機では選別できていないクズ豆や茶色や紫色になっている豆を見つけたりするとはじいたりするのだが、数が多くて時間がかかって仕方がない。やれやれ。
iPhone開高健の講演を聴きながらの作業。アマゾンの開発の問題とかの話も、悪くないんだが、やはり釣りそのものと、文学そのものの話の方が、僕は好み。でも話を聴いていると、たいてい開高健のエッセイで読んだ話(話題)のようであるのが、同時に小説家が文字にしなかったこともたくさんあるのだ、と思わせられて、しばししみじみしたりする。


開高健が講演の中で話している井伏鱒二の「業余詩集」というのは、『厄除け詩集』のことでしょうね、たぶん。【業余】というのを辞書で引くと、“本業の仕事以外にする仕事。余暇にする仕事。”とあります。小説家井伏鱒二にとって詩を書いたり漢詩を訳詩たりというのは、業余のことなのでしょうけれど、業余のことが、本業と同じくらい、または本業以上に甘い蜜を垂らすことはよくあることでしょうな。ま、あれこれ興味のままに手を染めても何一つ物にならない場合もそれ以上にたくさんあることを私は身をもって体験しつつあるわけだが・・・。
と、ここまで書いて、坂口安吾の『ラムネ氏のこと』の最後の段落を思い出す。後半、半分ぐらいは暗記しているのだ(笑)。


“いはゞ、戯作者も亦、一人のラムネ氏ではあつたのだ。チョロチョロと吹きあげられて蓋となるラムネ玉の発見は余りたあいもなく滑稽である。色恋のざれごとを男子一生の業とする戯作者も亦ラムネ氏に劣らぬ滑稽ではないか。然し乍ら、結果の大小は問題でない。フグに徹しラムネに徹する者のみが、とにかく、物のありかたを変へてきた。それだけでよからう。
 それならば、男子一生の業とするに足りるのである。”


「男子一生の業」というような大上段に構えた表現や言葉とは無縁の男子の一生をおくりつつある私だが、「男子一生の業」に足るという精神はよく理解できるのだ。
もっとも世の中の「物のありかたを変へ」るような仕事が、自分にできるとはまったく思わないが、もしそういうものがあるとすれば、日々、日常の坦々とした仕事や暮らしの延長線上にあることは、うすらぼんやりとわかるのであります。新しい芽を見つける眼が大切なんだけど、それは日常の仕事や暮らしの中から育まれるもののような気がするので。ノーベル賞を受賞された学者先生の話を読んでもそんな気がします。


どうもうちの子供たちはキノコ類が嫌いで、椎茸なんかも苦手みたいなのだが、えー、私は好きです。鍋物や味噌汁に入っているのも好きですが、最近は軽く焼いたものにはまっている。今日はぶなしめじを焼いてみました。むふふ。


今日、農産物の直売所での百姓どうしの会話。
「なんか、年末になってくると、なんやしらんやっぱりせわしないな。」
「ま、よろしいやん。年末が暇なより。」
「もう、正月っぁんなんか、きてくれんでも、平穏に、平均的な毎日やったら、ほんでええんやけど。」
「むふふふ。そういう発想は、年取った証拠と違うン?まあ、確かに、年末やと、正月に向けて大掃除とかさせられますしね。」
「なんや、ツジイさんみたいに、あんだけ毎日きばってるのに、大掃除させられるん(笑)」
「窓拭きして、蛍光灯交換して、天井拭いて、ちゅうて、毎年、やってるでぇ。」
「あはは。窓拭きな。」
「正月っぁんがきゃーるんやと、掃除せんわけにもいかんし。毎日、その都度その都度、きちんきちんと掃除してたら、大掃除なんてせんでもええんですやろけど、あかんがな、毎日がバタンキューやったりグズグズやったりするで。」
「ま、どこも、いっしょやな。大掃除な。ま、よいお年を。」
「むふふ。はいな、よいお年を。」
とは、言ってみたものの、まだ今年は大掃除に着手していない。ま、なんとかなるだろう。と思うしかない。