現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

大豆を乾燥機に入れたことと『Once Upon a Time in America』と古典の授業は不要か?


15日(金)
 車庫にひろげておいた大豆の水分を計ってみたら、16%ほどでもう少し乾燥させないといけないので、コンテナに入れて運んできて乾燥機に入れる。ま、箕を使っての作業なので、けっこう疲れる。
 夕方から報恩講さんの準備であれこれ。幕を張る作業ではひっかける釘が一本を残してほとんど抜けてしまっていることが分かり、慌てる。暗がりでの作業は危ないので明日の朝の作業にする。


 セルジオ・レオーネ監督『Once Upon a Time in America』(1984)をAmazonプライムで観る。いやー、4時間弱の長い映画ですが、一気に観てしまいました。一回観ただけでは、後半、ちょっと分かりにくくて、さらに最初の40分ほどを見直してしまいました。なるほど。見直して確認することが、いくつか。それでも最後のデ・ニーロの笑顔はどういうことなんだろうとか、気になるところはありますが。
 それにしてもロバート・デ・ニーロの演技のスバラシさ。かっこいいですなぁ。
 あと一つのシーンが長いんですな。会話のシーンも少ない気がするし、ようするにその場の空気や人物の表情によって状況説明がされていくので、どこか見逃していたりすると、あとからわからなくなったりしました。
 この映画は1984年ですから、僕がまだ大学生の時の公開で、通っていた銭湯にポスターが貼ってあったのを覚えています。話題にもなっていました。同じ学部の比較文化コースの先輩の女子学生Kさんと何人かでわいわいと飲んで話をしていたときに、どういう話をしていたのか覚えていないのだが、その人が「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカみたいな感じ?」と僕に聞いてきたことがあって、僕は映画は観ていなかったのだけれど、「観てない」と言えずに「いえいえ、まあまあ。」というようなことを言ってごまかしたことだけは、はっきりと覚えているんだなぁ。


16日(土)
 朝、6時から幕張作業。まだ薄暗かったけど、だんだん明るくなってきました。年番五人のうち二人が大工さんだったので、高いところでの釘打ち作業もうまくいき、きれいに幕を張ることができました。
 7時から報恩講さんの正信偈のお勤めがはじまる。初日の夜の正信偈のお勤めとお説教が終わったのが9時。


 そういえば、思い出したけど、最近、高校の国語の授業に「古典」はいらないんじゃないか、という議論があるようですね。先日ラジオを聴いていたら、そんなことが話題になっていました。2022年度から学習指導要領が変わって、現在は、「国語総合」が必修で、「国語表現」「現代文A」「現代文B」「古典A」「古典B」が選択科目になっているそうです。これが再編されて、「現代の国語」「言語文化」が必修で、「国語表現」「論理国語」「文学国語」「古典探究が選択ということになるようです。なんだかなぁ。こういう分け方をされると、文学は論理的ではないのか?とおもわずツッコミを入れたくなります(笑)。「古典はほんとに必要か?」って、議論が出てくること事態が、僕にはもう一つ理解できなくて、それはまあ古典を読まなくても、なんとか生きてこられているぜ。なんにも問題ないよ。ってことだと思うンだけど。または、もっと優先度の高い大事な授業があるだろう?グローバル社会で活躍するにはもっと企画書を書いたり議論をしたり発表したりという能力、ディスカッション能力、英語や数学の方が大事じゃないか、古典が必要なら現代語訳で学ばせればいいんじゃないか、古典は、芸術科目にして、趣味の人だけやればいいのではないか、などなどがラジオでは紹介されていたような気がするのですが。
うーむ。世の中、ほんとに分断の時代ですなぁ。僕にはあまり理解できない意見のような気がします。だいたい、グローバル社会で意見を言い活躍する人が、自分の国の古典をしっかり学んでいない、自分の立ち位置、アイデンティティがはっきりしないって考えられない。
 そういう意見を言ってる人は、ちょっとは高校でも古典の授業を受けてきた人ですよね。言葉の力、言語能力なんてものは、何がどれだけ役に立ち、実になっているかは、わかりにくいものだからです。そういう意見表面をしている人は、何も役に立っていないという古典の授業を受けてきたからこそ、そういう意見表明ができているとも考えられますよね。だいたい古典云々の前に、以前から算数は必要でも、数学は必要ない、って意見の方が歴史的にみれば長いし多いはず。古典不要論より数学不要論の方が歴史ありますよね。僕は数列や行列、微分積分、sin、cos、tanの三角関数、さらに微分積分には、手こずったというか、すっかりお手上げ状態だったけど、そういう世界があるということを少し知っただけでも、実生活にはなんにも役に立っていないけど、灰色の脳細胞にはよい影響をしてくれていると信じています。
 それはね、同様に『源氏物語』も『枕草子』も『万葉集』も『古今和歌集』も『徒然草』も『方丈記』も『折たく柴の記』も『平家物語』も『論語』も『孟子』も『老子』も『顔氏家訓』も『唐詩選』も『十八史略』も『蒙求』も『史記』も知らないうちに滋味となり強壮となり、灰色の脳細胞に栄養補給されているんですわな、たぶん。
忘れてはならないのは、日本人の思考は日本語でされているということです。たまに英語の堪能な人は英語の夢をみたり、英語でものを考えたりするそうですが、おおかたの日本人は日本語でものを考えるのです。あるいは感じるのです。そういうとき古典という過去の遺産を持っている人と持たない人の思考の深さにはおのずから差が出てくることは必然です。四季の移ろいの感受性の違いも出てくることと思います。だいたい、先進国で、いや先進国でなくても、自分の国の古典をあまり教えない国ってあるんですか?そんなことになれば、いよいよ日本の国は分断されます。格差が広がります。というか恥ずかしいです。
 だいたい、ま、未来を指向している若者に古典の授業の受けがよくないのは、よくわかります。でも、あーた、人間、五十を過ぎれば、あるいは自分の体力の衰え、老化を意識すれば、誰だって過去を振り返りたくなります。それは自分の過去であり、日本人の過去であり、人類の過去です。歴史であり、古典です。過去の積み重ねが文化ですわね。
 高校で古典の授業があって、ま、あまり興味がもてなくて、その時間うだうだ過ごしてしまって時間の無駄だというのなら、それはその授業の先生にいささか責任があったとしても、古典を学ぶ授業があることは必要なことだと思います。
 国の指導要領を考えるというのは、どういう日本人になってもらいたいか、どういう日本人を育てるかということだし。そうして大学入試のシステムにとらわれすぎるのもどうかと思うし。
 ラジオの投稿を聞いていたら、暗唱への不満がおおかった。意味もわからないのに暗唱させられるのが苦痛でした、というものが多かったけど・・・。そうなのかなぁ。僕は中学、高校でたくさん暗唱させられたけど、今ではずいぶん感謝しているけどなぁ。というか今から暗唱なんでとてもできないし。若い脳みそだからこそ、「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、・・・」「いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて 時めき給ふありけり。・・・」「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。・・・」「深田ありとも知らずして、馬をざつと打ち入れたれば、馬の頭も見えざりけり。あふれどもあふれども、打てども打てども働かず。今井が行方の覚束なさに振り仰ぎ給へる内甲を、三浦の石田次郎為久、追つ掛つて、よつ引いて、ひやうふつと射る。・・・」も百人一首も暗唱できたんだろうなぁ。(百人一首は苦手だったけど。)
 あと暗唱テストがよくあったので、石川啄木若山牧水の短歌とか萩原朔太郎高村光太郎の詩も暗唱しました。当時はたぶん面倒くさいと思っていたのでしょうけれど、今は感謝しています。


 そういえば学生時代には『文章読本』のたぐいがわりと好きでいくつも読んだ気がする。有名なのは谷崎潤一郎川端康成三島由紀夫伊藤整、中村慎一郎、丸谷才一井上ひさしですが、一番よく覚えているのは丸谷才一ので、確か暗唱すること、意味がわからなくてもとにかく名文、名歌を暗唱しなさい、と教えていたような気がするのだが・・・。
しかし、ま、中学でも古典は少し勉強するし、必修科目の「言語文化」の中でも古典作品には触れるんでしょうね。ラジオ番組の「古典不要論」がいささか勇み足的なものだったと思うのですが、誰がどう考えても国語の授業で古典を習わないっておかしいですからね。