現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

ラジオと「小沢昭一の小沢昭一的こころ」と坂口安吾でまたもやぼーっとなること


 しかし。なんだな。聴いていたラジオから、というか聴くともなく聴いていたラジオから、突然、そして絶妙のタイミングで、知っている大好きな古い曲が流れだすときの感動は、ちょっと言葉にならないな。
 「オッ!」と「エッ!」と「アチャ!」と「ワァオ!」と「ウギャ!」とが混ざったような感動のときもあるし、そのイントロがいつもに増してとても美しく聞こえてきたりする。
ラジオを聴きはじめたのは中学の時の深夜のAMラジオ放送から。それから音質のいいFM放送に。僕は夜中までウダウダすごす高校生だったけれど、定期試験の直前だけは夜中に起きだしてテスト勉強していた。ふっと気がついて窓の外が明るくなってきた時にラジオを点けると、いつもFM放送からバロック音楽が流れてきていたのもすごくいい思い出。パイプオルガンやチェンバロの響きが朝にぴったりな気がしたものでした。学生時代はテレビも下宿になかったしヒット曲や最新曲をラジオからフォローしていたし、バイトしていた食堂はずっと小さな音でラジオを流していて「小沢昭一の小沢昭一的こころ」がはじまると、バタバタしつつも、ちょっと耳に留めていたな。就職するようになって少しラジオから遠のいたけど、農業をはじめたら、あるときは農作業をしつつ、またあるときは軽トラでの移動中にラジオを聴いていた。田舎なので、また軽トラのカーラジオなので、拾える電波の関係でNHKのAM放送ばかりになりましたけれど。
 三月になってNHKも番組の編成が変わる時期なんですね。今、調べたら、NHKの午前中は「今日も元気でわくわくラジオ」(2003-2008)、「ラジオビタミン」(2008-2012)、「すっぴん!」(2012-2020)と聴いてきたような気がします。でもここ数年、ネットの「聞き逃しサービス」がはじまって「すっぴん!」はよく聴くようになりました。その「すっぴん!」も終わってしまいましたが、四月からはどうなるんだろう?そういえばネットラジオのおかげで、滋賀のにわかカープファンとしては、カープの試合の中継が聴けるようになったのもありがたいことですね。
 YouTubeで「小沢昭一の小沢昭一的こころ」を検索したら、こんなのを見つけてしまった。こんな歌詞だったのか。というか歌詞あったのか?笑える。昭和ですな。身にしみます(笑)。


小沢昭一 「明日の心だ」



 しかしなんだな。東、富山県富山市出身、朝乃山。西、石川県穴水町出身、遠藤。ラジオで無観客の相撲中継を聴いていたけれど、北陸出身同士の取組。両差しになった遠藤ですけど、小手投げで朝乃山。なるほど。朝乃山は六勝一敗。遠藤は四勝三敗。さらに僕の押している宇良は三勝0敗。
 今日の解説は荒磯親方、稀勢の里でありました。うーむ。はい、はにかみがありながら、技術的な解説もしっかりしていて、なかなかいい感じ。
 と思っていたら総理大臣の会見がラジオから流れてきた。緊急事態宣言についての会見らしい。世の中の人はどう思っているか知らないが、支持率も40%以上あるので、それなりに認められているのだろうけれど、ずっと会見の中継を聴いていたけれど、残念ながらこの日本のリーダーの言葉は、どうにもうわ滑るばかりで、心に響かないのはどうしたことか。


 坂口安吾の短編小説二編を読む。初めて読んだ小説のような気がする。いや、読んでいるのかもしれないが、・・・。「出家物語」と「目立たない人」。おもしろかったです。いやー、読んだ後、ぼーっとしてしまうなぁ(笑)。
 こういうことは書きにくいが、安吾の小説などは、例えば、例えばだが、女性経験がある者が読んだ場合と、そうでない場合とでは、いささかぼーっとなってしまう感じが違うのではないかと思う。ま、それをいっちゃぁ、おしめーよ。という貴兄もおられると思うが、漱石や鷗外も谷崎も村上春樹もその手の男女の描写があるけれども、それはまだ恋人やガールフレンドがいない中学生や高校生でも恋愛やその描写のすばらしさや、意図はわかる気がするけれど、安吾の描写は、ちょっと底が割れた人間を描くので、ボクチャンやオジョウチャンの心にはちょっとヒットしないのではないかと思うのです。
 「出家物語」は戦争未亡人になった30歳の女性が出てくるのですが、戦争未亡人と言えば、戦後すぐに書かれた「堕落論」の冒頭に出てきますな。


 “半年のうちに世相は変った。醜(しこ)の御楯(みたて)といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋(やみや)となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌(いはい)にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。”


 いやあ、名文ですな。戦時には「天皇を守る盾となってきます」と若者は花と散ったが、生き残った者は戦後闇屋となったし、「私もこのあとすぐに天皇を守る盾となります」とけなげに夫君を送った女性もやがてあらたな男の面影を胸に宿すのですな。「人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。」僕は昭和30年代に生まれ高度経済成長の時に育ったので、戦後すぐの混乱はまったく知らないけれど、安吾のこの力強い言葉に何度もうち震えたことがあるのです(笑)。そうしてたぶん「出家物語」も「目立たない人」もこの思いを小説にしてあります。「堕落論」の主題と小説の関係については『白痴』が取り上げられることが多いですけれど、まあ、それもわかります。けれど、この「出家物語」のほうがわかりやすい気はします。
 本音や本性をちょっと隠して、スタイリッシュに、意地や、沽券、体面、面目、などなどを大切にし、名を惜しみ、カッコよく生きるのもいいが、それはそれ余裕のあるときで、戦争に負けて、食料難になり、生きるていくのがやっとという状態になれば、そういう体面、面目が割れてきます。そこに人間本来の姿の発露を観たのが安吾なんですな。
 またこんなことを書くと叱られるかもしれませんが、今の大臣たちの所業のでたらめさを許し支持率が40%以上あるというのは、世の中にまだまだ余裕があるということなんでしょう。国政選挙の投票率、全体としては50%ちょっとしかなくて驚きますが、20代ですと30%ちょっと。30代は40%ちょっとしかありません。そりゃあ政治家は慢心しますわね。
 話はズレました(笑)。僕は百姓になったので、稲や麦や大豆の様子を観察するのが仕事の半分なんですが、その他に雑草や虫や鳥や、山川草木、鳥獣虫魚の観察も仕事の半分だと思っているのですが、そうすると、体面、面目が割れた人間、底の割れた人間のどうしようもなさと美しさ、可愛いらしさも、安吾を読むと感じるというか、思い出してしまうんだなぁ。


 10年ほど前の2010年の9月のブログに、「人生は三つの要素でできている。愛と友情と裏切りだ。三つとも大切にしなくてはならぬ。そして名を惜しめ。」といろいろパクリながら我が子孫に「賦」を書いたことにさせてもらったのだが、基本的な思いは変わりません。底の割れた、生き物としての人のありようを理解しつつ、愛と友情と裏切りを大切に。そうして「体面を重んじるサル」かもしれない人間は、意地やら体面、体裁、名を惜しみつつ生きていって欲しいなと思います。
 ああ、安吾はすごいなぁ、かっこいいです。ぼーっとなります。