現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

少し雪とける

今朝はあまり積雪はなかったけれど、バリバリに凍てついていました。午後は陽も少し射して少し雪解け。
午後から営農組合の総会と研修会。


机の上の整理をしていたら、『出版ダイジェスト』がでてきた。どういうわけだかときどき送られてくる。その中に増刊現代農業『食の自治から暮らしの自治へ』の中の結城登美雄×内山節の対談記事が紹介されていた。その中の群馬県上野村で農業もしている哲学者内山節氏のことば。
上野村の農産物が無くなっても日本というレベルで見ると何も困らない。むらには「日本の農業」がない。「村の農業」しかない。それが一面では苦しさではあるけれど、一面では強さでもある。日本の農業の話になってしまうと、日本の米がなくなったらどうするか、「海外から買えばいい」という話になる。海外には供給能力があるのかといえば、高く買えば絶対ある。高く買うためにはどうしたらいいか。自動車やコンピュータやらの関連産業を発達させて、みんなの所得をふやして高く買えるようにしておけばいい、という話になる。だから「日本の農業」の話になると、実は日本の農業をつぶしてもよくなる。輸入できる仕組みを維持すればいい。だから「日本農業論」でもだめだし、「世界食糧事情」でもだめ。一方の国で飢えていたって、一方にはこれだけ食べ物を捨てながら社会を維持している国があるわけですから、結局、良し悪しではなく、経済力さえあればそれができる。
だからやっぱり「上野村の農業」であり「鳴子の農業」と考えて、そこでよければそれでいいのだと考えた方がいい。僕は上野村にいて上野村さえよければそれでいいのだといつも思っています。そして上野村さえよければいいといえるやり方があれば、それは、よそに行ってもきっと参考になることだろうと思います。”
まあ、その自分ところの村さえよければそれでいい、というやり方さえなかなか見つけることが難しいのでもありますが。おっしゃっていることはよくわかります。でも本当に海外から高い食料を買いつづけるのかなぁ。