現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

大雪と「歳とともにわかること」

朝起きたら思いのほかのすごい積雪。30cmほどは積もっている。あわてて支度して雪かき。うちの奥さんは勤め人でもあるので、車を出さなくてはいけないのだ。わっせわっせとまた家の周りを一回り雪かきする。今度は長女を学校に送っていく。で小一時間ほどして帰ってきたら、さっき雪かきしたところにもう20cmほども積雪がある。いや、ほんとですって!


償却資産の申告の締め切りが今日なので、あわてて去年買った機械類の領収書等を探しだし、書類を調えて市役所の支所へ提出。いやはや。


村上春樹『雑文集』(新潮社)がアマゾンから届く。うーん、楽しみ。


今朝の日本農業新聞養老孟司の文章が載っていました。以下、その要約。
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論点 歳とともにわかること 農的価値は普遍なり


長年私は解剖学を学んできた。でも、物を書くときに解剖にふれることは多くない。なぜなら解剖は言葉ではないからである。その本質を言葉で言い表すのは容易ではない。というよりできない。やってみるしかないのである。
新聞やテレビ、今ではインターネットを含めてもいいが、こうしたメディアはすべて言葉に頼る。私自身もこうして言葉を使っている。でも直接に言葉が動かすことができるのは、その時々の人の気持ちだけである。
なぜこんな当たり前のことのことを持ち出すかというなら、一次産業が頭にあるからである。農林水産業の従事者は、半世紀前に比較すると1/10になった。こうした業種は言葉ではない。現場で体を動かして働かなければ、仕事にならない。私が生まれて育ってきた間に起こったことで、一番大きなことは、こうした現場の仕事の価値が著しく下がってきたことではないかと思う。
一次産業の従事者が年寄りだけになってきたのは、もう当然のように思われている。それでいけないかというなら、私はそうは思わない。明治の頃の世論調査がある。信心についてだが、若い人ほど、神信心をしなくなっている。そういうデータが出た。調査した人は、ゆえに将来日本の宗教は衰亡すると結論した。昭和になって、同じような調査をしたら、明治の時とほとんど同じ結果になった。若いほど信仰心がないし、歳をとるほど信仰心が篤くなる。要するに歳をとらないと、信心の意味がわからないのである。
過去の文化では、だから若い人に強制をした。強制では、言葉がきつすぎるかもしれない。伝統行事といってもいい。理由はよくわからないんだけれど、以前からやっているからやる。それが伝統行事である。農業ついていうなら、新嘗祭神嘗祭が典型であろう。陛下ご自身が神事としての農業を行う。今ではそれをまったく知らない若者が増えたのではないか。
医学部に入ると、必ず解剖学を学ばせられる。あんなものは意味がない。コンピュータにデータをいれて、それを学ばせればいい。そういう意見は以前からあるし、今でもあると思う。でも、世界の医学校で解剖をやめてしまったところはまずない。
医師はすべて解剖を学んできた。それを学んだところで、そんなものは自分の仕事の役には立たなかった。そう思う医師が何人もいることも、私は知っている。でも、ほとんどの医師は、解剖で医学に必要な何かを身をもって学ぶ。そんなものは不要じゃないか。そういう医師ですら、解剖はともあれ学んだのである。
農業が社会から抜きがたいものであることは、誰でも知っている。それなら農の将来は言うまでもあるまい。若者が気づくまで年寄りが担えばいいのである。
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なんだかね、泣けました。いつも通りぶっきらぼうな書きようなんですけれどね。百姓を泣かせにかかっている文章ですね。それにしても僕も歳をとってきたということでしょうか。そういうことなんでしょうね。まあ間違いないことですが。