現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

力仕事と農業のことなど


6日(木)
田回りのあと、籾殻のヌカ捨てにいき、籾擦りをして、米を農協へもっていこうとして、西の空を見たら、真っ黒な雲とその下にグレーのカーテンが出来ている。激しい雨が降っている模様。出荷する米の袋が濡れてしまっては大変なので、シートをガバリと被せて農協へ。農協の倉庫の50メートル手前でポツリと一滴来たな、と思ったのですが、そのまま倉庫へ入った途端にジャーッ!という豪雨。間一髪セーフ。いやはや。やれやれ。と思っていたら、農協の倉庫が雨漏りしてくるではありませんかいな。あまりの豪雨に一ヶ所はジャジャジャとその他にもポタリポタリと数ヶ所雨漏りが・・・。やれやれ。幸い米を置いた所の付近は大丈夫そう。雨は8分間激しく降り、5分間ほどシトシト雨になって、降りやみ、また晴れてきました。


この雨で今日は稲刈りが出来ないかな、と思いましたが、その後は雲が切れて晴れてきましたからこの分なら午後は稲刈りが出来そう。
籾擦りを続けて昼食のあとも、少し籾擦りをして、午後から稲刈りへ。快調に稲刈り。で、夕暮れに、籾殻を捨てに出る。乾燥機の温度を調節。
これで今日一日の仕事完了。



7日(金)
昨夜は快晴で遅くから月が昇ってきて、深夜にまだやや東の空に月齢19.5の月が照っていました。寝待月というのか、更待月というのか。今日は二十四節気の白露ということなのですが、朝、犬の散歩やら、田回りで田んぼの畦畔を歩くと、びっしりと露が降りていて、長靴はもちろん、膝辺りのズボンも露に濡れました。
もちろん今朝初めて露が降りたというわけではないのですが、こうしてだんだん露が降りるようになり、夜温も下がってくるとお米の味もぐっと良くなってくると言われています。


今日も今日とて、乾燥に時間がかかっているので、朝から快晴でそろそろ露も消えたか、という9時過ぎから稲刈りに出動する。昨日の残りを刈って帰ってきても、まだ乾燥機が動いているので、少し休憩。早めの昼食を食べ終わったところで乾燥があがったので、籾を乾燥機からタンクにあげて、籾擦りをすこしだけして、米を出荷し、稲刈りへでる。
昨日の激しい雨で、だいぶ稲が倒れてきた小さい田んぼが一枚ありました。まあだわだわとしなりかけてきた田んぼは他にもあるのですが。天気は明日から下り坂ということなので、その一枚も急遽刈ることにしました。もちろん倒れかかってきている田んぼですから、すでに充分に実っています。


僕が田んぼから帰ってくるのを待っていたらしい次女が本屋に連れていけという。次女にも、本屋にもあまい私は、乾燥機に籾を入れ、燃料を入れ、乾燥機周りの掃除をして、シャワーを浴び、次女と本屋さんへ。ところがなんといつもいく本屋さんは改装中!いやはや。仕方なく別の本屋さんへ。
「あーた、図書館にその本はないの?」
「このシリーズは図書館にないん。」
「うちのあの図書館なら、ない本はリクエストしておけば、買ってもらえるかもよ。」
「知ってる。でもすぐに読みたいん。待ってられんの。」
「うーむ。」
そして帰り道にはコンビニへ寄り道して、ちょっと苦くて泡の出る冷たい大人の飲み物を調達する。


田口壮が引退するんだ。うーむ。


さて、今朝の日本農業新聞に望月迪洋氏が文章を寄せている。以下その要約。


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「力仕事とは、農業を指した言葉なのだ。」子供の頃、田畑で働く両親を見ながら、理不尽な何か収まりのつかない感情で、そう考えていた。
父の妹が都会のサラリーマンに嫁していて、夏休みなど泊まりがけで遊びに行った。そこで農家の暮らしとはまるで違う別世界を見せられ、余計そうした思いにとらわれたのかもしれない。


農家では、働くということは力づくの肉体労働そのものだ。しかし、都会のサラリーマンの労働は子供には見えない。代わりに、軽快な暮らしぶりと収入の豊かさ加減ばかりが見え、「不公平だ」と感じたものだ。まず、都会の朝は家族そろって食卓を囲む。そして亭主を会社に送り出した叔母は、鏡台の前で化粧し「さぁ、みんな、デパートでもいこう」と。家では盆暮れ以外に家族がそろう朝食などなかったし、化粧する母など1度も見たことがなかった。
田んぼでは、父が刈り取った稲を、母が素早く束ねる。リヤカーのところまで1キロ弱の細いあぜ道を何十回となく往復して運ぶのが子供の仕事だった。小学4、5年生で1度に2束ほども背負えただろうか。年を重ねるに従い、束の数を増やせて、それが成長の証拠だと喜んだ。父の10束、母も5束を背負っていただろうか。子供心に「大人は力があるんだな」と思った。
農作業を切りあげて、家路につくのは、すっかり陽が落ちてから。家に帰りつけば、母が夕食の用意をする間に、月明かりを頼りに父と2人でハザ木に稲を干す。
夕食後、日によっては脱穀の仕事が待っていた。発動機の轟音の中、藁くずや籾殻にまみれて、夜半を過ぎることさえ珍しくなかった。


そんな力仕事が農業から姿を消したのは、いつの頃からだろう。ムラで圃場整備、農道整備が進み、田植機やコンバインが普及してから、本当にあっという間の出来事だったように思う。
物事の変化にはいつも代償がつきまとう。力仕事からは解放された農業には、代わって資金繰りや経営収支とか市場ニーズとか、サラリーマン世界と同類の難問がふりかかる。肉体の酷使に代わって、神経をすり減らす場面がずっと増えてきたのではなかろうか。並行して時代も大きく変わったのだ。
父は大学に進む私に「農業はいいぞ。誰にも気兼ねせずに働ける。何より自由がある」と諭した。「サラリーマンは派手に映るが、会社の人間関係に気を使い、上司にお世辞も言えないものは住みにくい世界だぞ」とも。
父のいた昔の農業にはもう戻れないのだが、汗した力仕事に郷愁を感じる時がある。離れたゆえの錯覚なのだろうが、何ものにもかえがたい体験だったと思う。
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朝、読んでいて胸がジーンとなった。望月迪洋氏は1946年の新潟は佐渡の生まれらしい。僕より15年も年長のジャーナリストということになります。
農業は、同じ水稲栽培でも、地域が違えば気候も土も水も違ったりするので、作付けしている品種も違うし、機械の普及具合も違う。ですから、同じ年代、同じ時代といっても様々なのが普通です。僕は藁束を担いで運んだ経験もないし、このあたりにはハザ木に稲を干すことはしませんでしたし、夜半まで脱穀をしたこともないが、あれこれ昔の父や母の姿を思い出したからです。
僕が小さかった頃は家族で稲刈りして、刈った稲は藁で束にして、田んぼにトン!と立てるんです。で、そのまま数日乾燥させてました。でヤンマーのディーゼルエンジン単体と脱穀機を田んぼに運び込んで、ベルトでつなぎ、田んぼに立ててある稲を脱穀機で脱穀します。脱穀した籾は麻のズタ袋に溜められますので、それを耕耘機のリヤカーで家に運び、箱型乾燥機に入れてまた乾燥させます。乾燥の終わった籾は、家の中の座敷や居間の畳をあげて、板の間にして、そこに蓆で枠を作り籾を運び込みます。もう普通の家の中が作業所となるわけですね。そんなのが二つ、三つと溜まってくると、共同で使う組み立て式の籾摺り機を家の土間に運び込んできて組立て、近所の人(みんな農家でしたから)に手伝ってもらいながら、籾擦りをしてました。大きな交流モーターで動かすのですが、遠くから太い電線をひいてモーターを回していました。
たぶん僕がまだ小学校にあがってなかった頃で、小さかったからだと思いますが、鎌での稲刈りや籾運びの先引きを手伝った記憶はありますが、そういうのを見ていました。ご近所と一緒にする籾擦りが終わるとみんなで飲んでいましたが、酒のつまみが、蒲鉾でした。蒲鉾を切って、生姜と酢と醤油で食べます。みんな力仕事をして、少し酒が回ってご機嫌でした。
小学校の三年だか四年生の頃に、圃場整備の工事が始まって、田んぼが広くなり、少しづつ機械が大きくなっていきました。


昼食の時に、父に圃場整備と稲刈りのバインダーを使うようになったのと、どっちが早かったのか、というような話をしていたのだが、父が「圃場整備をするとき、圃場整備をすると日本の農業はダメになる、と言うてる人があった。その時、みんな田んぼが大きくなり、機械化が進み、力仕事が減り、農業が楽になる、と思っていたんやけど。」と言った。確かに昔のような力仕事は減って楽になったけど、日本の農業人口は激減し、米価は安くなり、農業をする若い人はあまりいなくなり、農業者の平均年齢はいよいよ高くなっている。時代が変わり、世の中が変わったと言えばそれまでだが。
しかし、このあたりでも農業を離れた人は多いが、それでもみんなほとんどの人は家の近くに畑を作り、ちょっとづつ野菜を作っているし、家の周りに花を咲かせている人は多い。
現代の日本で農業はいささか厳しい状況になっているように見えるが、「農」はやはり悠久のものだ。人は太陽と土と水から離れては生きられない。安全でおいしい食べ物がないと生きていけない。安全でおいしい食べ物がないと人生はつまらない。


画像はiPhoneで撮ったからか、雲が白く飛んでしまいました。あれこれ補正してみましたが、データがないところはどうしようもありません。