現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

旧暦の七夕と『日本の恋と、ユーミンと。』と終戦の日


12日(月)
田回りのあと、いつもの畦畔の草刈り。
昼に長男が帰省してきたので、駅まで迎えに行き、何か食べていくか?と言うと、ほんならそばでも、と言うので、その帰りに蕎麦屋に寄る。店はずいぶんと混んでいる。長男はせいろそばと田舎そばの二色そばを注文し、僕はそれにレモン風味のそばが加わった三色そばを注文する。長男はわりと好き嫌いがあるのだが、蕎麦は好きなのだ。本当なら僕はうまい酒でも注文して、ゆっくり味わいたいところであるが、車の運転もあるので、我慢するしかない。ゆっくり時間をかけて運ばれてきた蕎麦であったが、長男は一口、ズルズル、ツーゥ、とすすり上げるなり、うまい、とのたまわったのでありました。確かにコシのある風味豊かな蕎麦でした。
昔、木曽駒ケ岳にいっしょに登った帰り、駒ケ根の蕎麦屋で食べた蕎麦のうまさを思い出したりする。


夕方、また草刈りに出る。風があってありがたい。


夜、奥さんと子ども達がペルセウス座流星群を観ている。


13日(火) 旧暦の七月七日の七夕 月齢は6.2だそうである。
午前と夕方と草刈り。昼寝つき。


夕方、コンビニにビールを買いに行ったら、ずいぶん国道脇のコンビニが混んでいるし、お客さんの様子もお盆休み風である。止まっている車も県外ナンバーが多い。コンビニの混み方で、世間がもうすでにお盆休みであることを知る。


今夜も子ども達が流星群を観ている。


14日(水)
朝、田回りをして、午前中はビールを買いに行ったりする。
お昼に弟夫婦が帰省してきたので、みんなでお寿司やらあれやらこれやらを食べながらビールを飲む。夕方、みんなで墓参り。弟夫婦は帰っていってからもなんだかたくさん飲んでしまう。


夕暮れ、庭やあちこちに打ち水をする。なんだか涼しい気になる。



15日(木) 終戦記念日
朝夕の田回り以外は、終日、ごろごろ。


うちの奥さんがもうずいぶん前、去年かぁ?に買っておいた『日本の恋と、ユーミンと。』が封も切らずにタンスの上に乗ったままだったので、iTunesに入れて鳴らしてみる。リマスタリングもしてあるし、昔、カセットテープで聴いていた時より、ずいぶん音がいいので驚く。ユーミンも40周年かぁ。
たぶん、『NO SIDE』が発売された頃だと思うけど、女の子と喫茶店で話をしているとき、話題がユーミンに及んだ。その時その女の子が「ユーミンのアルバムは全部持っているわ」と話したのがすごく印象に残っている。それまでユーミンのユの字も話さなかったのに、いきなり全部持っているわ、なんて。レコードなのかカセットテープなのか、夜、自分の部屋でユーミンの曲に耳を傾けている女の子が頭の中にぱーっとひろがって、グッときてしまったのでした。そのとき、ユーミンという歌手と曲の絶大な人気と、その聴かれようをまざまざと実感したのでした。


さて、13日の日本農業新聞に「戦火に耕す」という記事が載っていた。少年農兵隊の話は父からも聞いたことがある。どうもこの記事の臼方馨さんは父と同じ年の生まれではないかと思う。


戦火に耕す  -少年農兵隊-


太平洋戦争末期の1944年から45年にかけて、食糧増産を目的とした少年農兵隊(甲種食糧増産隊)が組織され、全国の14、15歳の少年約12万人が動員された。彼らについて記した資料は戦後ほとんど焼き捨てられ、残っていない。武器を持たない兵隊として国土を耕した少年たちの当時の様子と、平和への想いを伝える。


千葉県神崎町。農家の臼方馨さん(82)は45年3月に少年農兵隊に入隊した。 13歳11ヶ月だった。農家の跡取りだったため、「父も、農兵隊なら百姓仕事だからいいだろうと了解してくれたようだった」と振り返る。
天皇陛下のために戦死するのが立派なことだと、 99%信じていた。 1%だけ、戦死を恐れる気持ちと、顔を見たことがない陛下のために死ぬことへの疑問を抱いていた。


農兵隊に入ると毎日、銃の代わりに鍬やスコップを肩に担いで、軍歌を歌いながら行軍した。原野や松林を開墾したり用水路工事したり、焼け跡の整備等に汗を流した。農産物を作ることはなかった。
作業前には「ひい、ふう、 みい」と掛け声を合わせて「やまとばたらき」という体操をした。上司の小隊長や中隊長は、農学校卒業直前の18歳前後の動員学徒だった。
「とにかく張り切ってたなぁ。『貴様らモタモタするな!』と、すぐにびんたが飛んできた。みんなまだ子供だったから、夜中になるとしくしく泣く子もいてな。鳴き声を聞くと家開拓なったよ。」


入隊中に満洲へ行く義勇軍募集の話があり、臼方さんはすぐ応募した。しかし小隊長が「お前は行かない方が良い」と願書を提出しなかったという。後に、満州へ行った仲間が全身を蜂の巣のように銃撃されて死んだことを知った。「農家の跡取りで体も弱そうだったから、配慮してくれたのだろう」と思い返す。
育ち盛りで、空腹が辛かった。竹を輪切りにしたものが茶碗で、底が盛り上がっているためご飯が少ししか入らない。おつゆに具はほとんどなく、おかずもなかった。空腹に耐えかねて保存していたサツマイモを盗み食いし、ビンタを受けた。体ごと横へ吹っ飛んだ。「芋泥棒なんかで、殴られて、親父はなんと思うだろうか。」夜中、美しく光る満月を見上げて、ぼろぼろ涙を流した時の情けなさと悔しさが忘れられない。
8月15日、焼け跡整理から帰って宿所で終戦を知った。負けてほっとした。空襲で焼夷弾が降り注ぐなかトランクを頭に乗せて逃げ回った恐怖がよみがえった。「ああ、もう死ななくていいんだ。くやしがって泣くやつなんか見当たらなかった。みんなも同じ気持ちだったんじゃないか。」


戦後68年。最近になって政治家が「日本は悪いことをしていない」と大きな声で言うようになってきたのが気にかかる。「騙されるな。戦争は間違いで、日本は悪い事をしたんだ。上の連中は自分が戦場に行くと思っていない。負傷してウジがわき、苦しみの中で死んでいった仲間を見ろと言いたい。」
殺し合うのが戦争・・・。
「歴史に学んで、決して繰り返してはいけない」と声を強める。


日々の暮らしに追われていると、ついつい忘れがちになるけれど、忘れてはいけないことはある。平和とか安心とか権利と義務とか平等とか、奥の深い言葉だから、敬いつつも遠ざけたいと思うからか、自分の身の回りのことではないようで、実は自分の身の回りのことでもある。
今日も暑い一日でした。