現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

『ベイマックス』と『「あの日」からぼくが考えている「正しさ」につ

ベイマックス

17日(土)
敦賀でデイズニー映画の『ベイマックス』を次女と奥さんと三人で観に行く。えー、思っていたよりもおもしろい映画で楽しめました。架空の都市「サンフランソウキョウ」が舞台となっていますが、うーむ。『ブレードランナー』風に街のあちこちに日本語らしきものが散らばってました。


帰りに「さかな街」で、ズワイガニの足などを買う。この季節、蟹はこの魚市場のあちこちで売られているのだが、イケメンのお兄さんに、思わずうちの奥さんの足が止まってしまったのだった。もちろん、もうこれでもか、とイケメンのお兄さんにはサービスしてもらったつもりにさせられているのだが、あちらからすれば、いいカモ扱いだったことだろう(笑)。


行きも帰りも、福井と滋賀県境は、吹雪でした。雪もたっぷりありました。




18日(日)
朝起きたら4〜5cmの新雪が積もっていた。いつものようにレノン号と散歩に出たが、ちょうど日の出で、すでに雪はやみ青空が広がりはじめていて、軽い新雪を踏みながら田んぼ道を歩くのは、とても気持ちのいいことでした。



高橋源一郎『「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について』(河出書房新社)読了。2011年という特別な年に高橋源一郎が書いたツイッター上の言葉や評論やエッセイや小説(の一部)を集めた本です。
2011年3月11日からの数日間、数ヶ月間、確かにテレビにも、ネットにもかじりついたような気がしています。


その時々に思ったり考えたことはたくさんあったような気がするのだが、滋賀県で農業をして、ネットの通販でお米を販売していた僕には、書きにくいことがたくさんあったような気がしている。
それは例えば震災の原発事故の直後に、福島で長年有機栽培に取り組まれてきた農家が自殺されたニュースを聴いた時のショックから続いているもののような気もしています。


高橋源一郎は、震災後、あれこれ発言の気配が変わった、と有名にもなったので、僕も気にはしていたので(というか、『さよならギャングたち』以来のファンでもあるのだが。)、この本に掲載されている文章も幾つかは読んだものであったけれど、ああ、それでも忘れているのだ。4年がたとうとして、あれやこれや忘れかけている。いくつか読んでいて、あれこれ思い出すこともありました。
2011年10月27日の朝日新聞の『論壇時評』


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10月6日。
ショック・ドクトリン』の著者で、反グローバリズムの代表的論客、ナオミ・クラインは、彼らが占拠する広場で演説した。
そこで、彼女は、一つの「場所」に腰を下ろした、この運動の本質を簡潔に定義している。

「あなたたちが居続けるその間だけ、あなたたちは根をのばすことができるのです……あまりにも多くの運動が美しい花々のように咲き、すぐに死に絶えていくのが情報化時代の現実です。なぜなら、それらは土地に根をはっていないからです」

かけ離れた外見にかかわらず、「祝の島」のおじいさんとニューヨークの街頭の若者に共通するものがある。
「一つの場所に根を張ること」だ。そして、そんな空間にだけ、なにかの目的のためではなく、それに参加すること自体が一つの目的でもあるような運動が生まれるのである。

上野千鶴子は大著『ケアの社会学』で、ケアの対象となる様々な「弱者」たちの運命こそ、来るべき社会が抱える最大の問題であるとし、「共助」の思想の必要性を訴えた。「市場は全域的ではなく、家族は万全ではなく、国家には限界がある」
背負いきれなくなった市場や家族や国家から、高齢者や障害者を筆頭とした「弱者」たちは、ひとりで放り出される。彼らが人間として生きていける社会は、個人を基礎としたまったく新しい共同性の領域だろう、と上野はいう。

それは可能なのか。
「希望を持ってよい」と上野はいう。震災の中で、人びとは支え合い、分かちあったではないか。

その共同性への萌芽(ほうが)を、ぼくは、「祝の島」とニューヨークの路上に感じた。ひとごとではない。やがて、ぼくたちもみな老いて「弱者」になるのだから。
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例えば。
なぜなら、それらは土地に根をはっていないからです。
「弱者」たちは、ひとりで放り出される。
やがて、ぼくたちもみな老いて「弱者」になる
これらの言葉は、当時の新聞だったか、ネット上でだったか、読んだことをはっきりと覚えている。


僕があれこれ書きにくいことがたくさんあったような気がしている、と書いたのは、それはもちろん仕事というか、商売上、あんまり主義主張というか、政治的なことを書き連ねるのは、「商い」に障りが出るのではないか、といういささかチンケではあるが、売るとか買ってもらうという行為の根本からにじみ出る危惧からである。
ま、僕としては、信頼に足る生産者になるしかないし、消費者、お客様を信頼するしかない。


というわけで、次は真木蔵人『BLACKBOOK 蔵人独白』(コアマガジン)という、その筋では有名な本を枕頭本にする。


夜は、寄り合い。