現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

稲刈り開始

稲刈り開始

今日から稲刈り開始です。
しかし、こんなに暑いなか稲刈りをしたのは初めてではなかろうか。朝夕はすこし気温も下がってきているとは思うし、秋の虫も鳴きだしてはいるのだが、日中の暑いこと暑いこと。
今日は試運転もかねてなので、小さい田んぼ三枚を刈りました。そのうち一枚は追い肥が少し多かったのか、いささか倒伏気味。
今晩、乾燥をして、明日の午前中に乾燥を終えて、籾擦り、選別、袋詰めまでをしてみます。


昨日30日付の日本農業新聞のコラムに宇根豊氏が「たおやかな農本主義 公私を超えた生き方」という文章を書いていた。以下はその要約。

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若い人は「農本主義」という言葉を知らないだろう。この言葉は明治時代に生まれた。農本とは「農はすべての営みの根本だから、他の産業と同列にするな」という意味であった。農が軽んじられた昭和の初期にこれを「原理主義」として掲げて、革命を目指した先人がいたが、見果てぬ夢に終わった。
さて現在では、農だけは特別な価値があるという主張は通用するだろうか。かつての農本主義者は「食べ物は命の糧だから、農こそが一番大事だ」と主張した。しかし今日では、食べ物は外国から安価に輸入できるし、別に農が地元に存在する必要などない、という主張が根強い。
ところで、かつての農本主義者はもう一つ、自然に働き掛ける百姓仕事の喜びで、経済万能主義に対抗できると考えていた。「しかしそれは個人的な満足でしょう」と今なら受け取られるだろう。
ここからが新しい農本主義理論となる。その「私的」な百姓仕事が、自然に代表されるカネにならない「公的」なものを支えている。しかも無償で提供し続けている、ことを言い立てたい。
原理主義とは、近代化に対抗する思想である。近代化はかつては進歩を牽引した。しかし現代では、経済(カネ)の暴力で、私達の大事なものを踏みにじる。それに対抗する「原理」があってもいいだろう。
確かに原理主義者は、独善的で他人の言うことに聞く耳を持たない印象が強い。だが、ここまで経済価値がはびこると、農本主義者のとる道はひとつしか残されていない。自分の生き方として、経済の犠牲になって滅んでいくものに寄り添って、カネにならない価値を抱きしめて生きていく、その生き方で示すしかない。これを私は「新しい農本主義」と呼んでいる。
まともな「原理主義」の簡単な見分け方を教えよう。1.近代化思想に異を唱えていること。2.その「原理」を自分の生き方の中心に据えていること。3.その原理のためには、自己犠牲もいとわないこと、だ。
つまり、カネ万能の世の中に嫌悪感を覚え、農を人生の中心に据え、効率が悪くても、所得が低くても、静かに田舎で生きていくのは、農本主義の手本である。
現代では、百姓を継ぐ人たち、新しく百姓になった人たちの多くは、カネもうけを目指してはいない。何を百姓暮らしに求めているのか、カネにならない世界の豊かさである。それは百姓仕事からもたらされる。生きがいも、地域の土台も、生き物への深いまなざしも、そしてナショナルな価値としての自然も、百姓仕事から生み出されている。
なぜそうなるのだろうか。農とは、自然との関係を「自給」するしかないからだ。時を忘れて、百姓仕事に没頭するのは、カネのためではない。そういう世界に誘われてしまうのである。「私」とか「公」を超えた、経済とか非経済とかを超えた生き方としての「たおやかな農本主義」が新生していくことを私は疑わない。
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話はよくわかるし、日頃、思っていることを言葉にしてもらっているのだが、子育て真っ最中の私としては、「カネもうけを目指していない」とは言いにくい。要するに、僕はともかく、子ども達については、経済的な理由で、広い意味での教育の機会について、親として、辛抱させたくはない、という気持ちがあるからです。今の僕にはなんらたいして責任らしきものはありませんが、とりあえず「家族を守る」責任がありますから、バリバリ、ジャンジャン、ドンドン、ガバガバ。お金を儲けていきたい、という気持ちは、あるのです。当たり前ですが。


久しぶりにiPhoneで撮った写真をコンピュータ処理してみました。うーむ。