現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

秋起しと大豆の選別と西田幾多郎の書


18日(月)
朝一番に精米など、その後は終日、秋起しに出る。トラクタで、稲刈りのすんだ田んぼを荒起しする。
本当はもっと気温の高いうちにするのがいいのだそうだが、コンバインが稲刈りと同時に藁を切ってばらまいておいてくれるので、それを土に鋤きこんで、藁の分解を促すんですね。本当は少し発酵鶏糞なんかも入れて、窒素分を補ってやるのがいいんでしょうが。


19日(火)
夜は寄り合い。


20日(水)
午前中から大豆の選別作業をする。ちょうどたくさん雑草を生やしてしまった圃場で、大きな粒が少なかったし、中粒はきれいな豆が少なかった。うーむ。先日の選別の大豆はなかなかきれいで大粒もたくさんあったのだが・・・。


1時ぐらいまでかかったので、その後昼食休憩、で、車庫にひろげてある大豆をコンテナで運んできて、また乾燥機に入れる。コンテナにれたり出したり。米以上に何度も同じ大豆を触っている。これでもコンテナとリフトを使うようになって、少しらくになったのだが・・・。


西田幾多郎って、哲学者の名前を知っている若い人はどれくらいいるのだろうか。たくさんいると思うが、少なくとも、うちの子ども達はみな知らないと思う。『善の研究』(岩波文庫)がたぶん本棚のどこかにあるはずだが、読んだフリをしたのは、高校生の頃だろうか。なんにもわからなかったんですけど(笑)。でも17、8の高校生にわかるはずもないわなぁ。
先日新聞を読んでいたら、西田幾多郎遺墨展 ー黙より出でて黙に帰すーというのを京都大学総合博物館でやっていると報じていた。
以下その紹介記事の要約。
=============================================================

弟子で書家でもあった久松真一が、師の書を初めて見たのは大正初期。西田が京都帝国大(現・京都大)教授を務めていた時期だ。その印象を「禅僧の古墨跡を見るよう」と随筆に記している。
石川生まれの西田は屈折した青年期を送る。第四高等中学校(現・金沢大)を中退し、独学に励もうと読書に没頭するが、目を悪くした上、父との確執もあった。「公私にわたる苦難を乗り越えるためか、 30代半ばから禅に傾倒した」と藤田教授が説明する。
禅の修行のため、金沢の禅僧、雪門玄松のもとに通った西田は熱心さを認められて「寸心」の居士号を与えられ、そのまま雅号にもした。
穏やかな筆の運びが印象的な「百花春」。傍らに「寸心」が堂々と書かれている。「百花春」は禅の公案集にある唐代の詩人、杜甫の詩の中の「百花香し」を基にしているという。
「自身の心によりぴったり合う表現にしたいと、春に置き換えたのだろう。書家ではなかったからこそ、型にはまらず、多彩な書体を自由に書き上げた。その伸びやかさが西田の書の魅力」
1928年(昭和3年)、京都帝国大を定年退職した西田は、それまで以上に書に打ち込みようになる。無心である姿を伝える「無我」、コツコツと日々、学問を続けることを自らに課した言葉「一日不作為一日不食(いちにち為さざれば一日食らわず)などを好んで題材にした。気分の良いときには一日に70〜80枚を書いたという。書風は、どんどん流麗になっていった。
藤田教授は「湧き出る思想を1つ1つ言葉にし、書きながら思索を展開させていったように、書においても西田は、筆を持って紙に向かい、生命のリズムを刻み続けた」と指摘する。
最後のコーナーでは、自作の短歌を題材にした書を集めた。「老いぬれど 我の門出を 送られし 母のみ姿 わすれ難かり」。母と長男を相次いで亡くした後の作品だ。この短歌を読んだ3年後には妻も世を去るなど、哲学者として名を成した後も、私生活は平穏ではなかった。
愛する人を次々に失い、その人生は悲哀に満ちていた。だが、悲哀こそが、哲学という学問を深める動機ともなった。書からは、そうした感情の揺れ動き、哲学に情熱を傾ける様子もうかがえる」
子孫のもとに保管されていた130点が京都大文書館に寄贈されることを記念して開かれた本展には、約40点の書が並ぶ。それらが浮き彫りにするのは、書を支えに思索を深め続けた西田の生きる姿そのものだ。
12月1日まで。

=============================================================



こんなことを今さら思い出して書くのは、その西田の書がなんともすばらしいと感じられたからなのだが・・・。そうなのか、あの難解な文章を書いていた先生は、こんな字を書いていたのか。「字は人をあらわす」とか「体をあらわす」とか言いますね。いや、本当にあらわしているのかどうかは、わかりませんが(笑)。


まだ、12月でも、大晦日じゃないけど、久しぶりに小三治の『芝浜』を聴く。泣けるぜ。