現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

草刈りと溝切りと百年後に


23日(月) 沖縄慰霊の日
終日、畦畔の草刈り。
夕方、田んぼから帰ってきたら、奥さんもすでに帰ってきていて、今日は次男の部活動もなくて、久しぶりに早く帰ってきているから、どこか外へ食べにいかないか、という。外食かぁ、久しぶりだぁ。というわけで、次男次女と四人で近江牛の焼き肉屋さんにいくことになった。僕は初めてのお店だが、奥さんは長女と以前にランチを食べにきたらしい。
駐車場に車を停めてドアを開けたら、すでに激しく肉の焼けるいい匂い。これはたまらん。いやあ、おいしかったです。焼き肉屋さんで食べるなんて、何年ぶりだろう。ビールもおいしかったのだが、最後に飲んだバカルディの瓶入りモヒートがなんとも爽やかでおいしかった。思いの他焼き肉にあうのでありました。ま、本当はヘミングウェイになったつもりで、ハバナのバーで飲みたいのだが。


お昼に、軽トラのラジオが、今日が沖縄の慰霊の日であること。太平洋戦争で、唯一、日本国内の一般住民が地上戦に巻き込まれたこと、沖縄戦の20万人(!)を越す戦死者のうち9万4千人あまり(!)が、兵隊以外の一般県民や子どもたちであったことを伝えていました。初めて知ったことではないのですが、聞いていて、その数字にあらためて打ちのめされます。まして・・・。


24日(火) 気持ちよく晴れる
今日は例のRR5(改)に溝切りの舟をつけて、田んぼの溝切り。溝を切ってから、落水して中干しに入ります。中干しは、土を乾かして根にも直接酸素に触れさせます。

今年初めてRR5(改)で溝切りしてみたのですが、ハンドルを切って曲がるところでは、前輪と後輪、それから溝切りの舟、それぞれが内輪差というか、微妙に動きにズレが生じるので稲を踏みますな。それから田植えの時、最後、畦際で、2条とか4条とか調節して植えることがありますが、そのあたりで条間が微妙になっているところも、車輪で稲を踏みますな。ま、チェーン除草で苗を踏むのにはだいぶ慣れてきているのですが(笑)。
ま、去年まで、蒸し暑い炎天のこの時期、田んぼの中を溝切り機について歩きに歩いて大汗をかいていたことに比べると楽になりました。

内山節22日の中日新聞に内山節氏が文章を寄せていた。

===============================================================

今から15年ほど前、群馬県の「新総合計画」の策定に加わったことがあった。「新総合計画」は五年ごとに全国の都道府県が作っているもので、その県の基本計画のようなものである。
はじめに各地の「計画」を読んでみたら、どこの都道府県も同じような内容になっていた。先端産業の育成とか、高速交通網、高速通信網の整備、子供たちの生きる力を育むなどとともに、自然と共生する県づくり、弱者に優しい県づくりなどが並んでいる。
どうして同じような内容になるのか、それは5年計画であるところに理由があると気づいた。どの都道府県でも当面の課題を持っている。5年計画だとその当面の課題を列挙することになり、同じようなものになっていく。
このときの群馬の「新総合計画」では、5年計画をやめ、百年計画に変更した。百年後というと、いま生まれた子や孫が最晩年を迎えているところである。だから子や孫が歳をとっても困らない群馬をつくるにはどうすればよいのか、それを考え方の柱にすえたのである。
五年から百年に計画間を延長してみると、「つくる」計画が意味をもたなくなってしまった。例えば百年後にどんな交通手段や通信手段が用いられているのかなわからないんだから、高速道路を作るのといっても意味がない。100年後の社会の姿がわからない以上、「つくる」計画を立てようがないのである。逆に重要になったのが「残す計画」だった。社会がどんなに変わっていても、これだけは残しておかないといけない、そういうものをしっかり残す計略に変わった。
どんな社会になっていたとしても、自然は残しておかないといけない。二次、三次産業は変わっていくだろうけれど、農業などの一次産業はしっかり残しておかないとうまくない。たとえどんな社会なったとしても、コミュニティーや本物の地域自治のかたちも残さなければいけないし、そして何よりも、さまざまな課題に対して考え続ける風土を残さなければならない。もちろん残すためには、都市のコミュニティーのように「つくって残す」ものもあるが、それは公共事業のようなものではないのである。
百年計画の理念を提起し、それに基づいて県が事業計画を策定したものが、このときの「新総合計画」だったが、重要なのは、どんな時間幅で物事を考えていくかだった。それによって、見える世界が変わる。
ところが今日の政治や経済は、極めて短期間の、いわば目先の利益ばかりを追っている。百年後にも人々が平和を享受できるようにするにはどうしたらよいのか、というような発想はどこにもないままに集団的自衛権を強行しようとする。百年後にも通用する憲法の役割を考えるのではなく、解釈の変更だけで事実上の憲法改定をもたらそうとする。経済と社会の関係を考えることもなく、「成長戦略」と称して、原発の再稼働と輸出、武器輸出、観光客を呼び込むためのカジノの建設、法人税減税などをすすめようとする。
おこなおうとしていることは、当面の政策でしかないのである。これからの社会に対する理念がなくなっている。もっと長い時間幅で考えなければ、理念は生まれないのだから。私はそれは劣化して世界の姿だと思う。
===============================================================



百年先を考える時、「つくる計画」が意味を持たず、「残す計画」が重要になる、って、その通りだなぁ。自然を残しておかなくてはいけない、って誰でもわかるし、人間が地球を爆発させて吹っ飛ばしてしまわない限り、人類がいようがいまいが、どんなかたちであっても自然は残ると思うけど、できることなら人類、平和に暮らす子々孫々と共に、せめて今と同じぐらいの、豊かな自然を残したい。


今日は溝切りをしながら田んぼの中をゆくと、たくさんのトンボがいた。毎年、この溝切りの時期に田んぼのヤゴが一斉に羽化するんだよなぁ。それからちいさなイトトンボもたくさんいた。イトトンボは小さいし細いし、種類も多いようなので、なにがなんだかよくわからない。なかなか携帯のカメラでは写らないし。でも田んぼの上を飛んでいたり、稲にとまっていたりするとうれしいんだなぁ。