現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

天長地久とサステナブル


23日(火) 天皇誕生日
 晴れて陽射しはあったが、北風が強く寒くなる。
 今日は国民の祝日天皇誕生日だが、この時期に休日があるのにまだ慣れない。以前は天皇誕生日のことを「天長節」皇后誕生日を「地久節」と言いました。ええ、私が生れる前のことですから私になじみはありません。唐の玄宗皇帝の誕生日をお祝いしたことに由来しているそうです。そういえば白居易の「長恨歌」の最後のところに、
   七月七日長生殿
   夜半無人私語時
   在天願作比翼鳥
   在地願為連理枝
   天長地久有時尽
   此恨綿綿無絶期
と、出てきますね。「天長地久」は要するに「天地長久」「天壌無窮」と同じことなんでしょう。うちの座敷に「天地長久」の額が上がっています。天地が長く続き安定しているのを謳歌するおめでたい句であるのでしょうね。
 もともとは『老子』に、


   天長地久。天地所以能長且久者、以其不自生、故能長生。是以聖人、後其身而身先、外其身而身存。非以其無私耶、故能成其私。


とあるんだそうです。
 さて、読めるのか?、と力んだり悩んだりしなくてもネット検索すればシュルシュルとたくさん出てきます。もう学生ではありませんので、ここは保立道久先生のページに教えていただくことにします


   天は長く地は久し。天地の能く長く且つ久しき所以の者は、其の自らを生ぜざるを以てなり。故に能く長生す。是を以て聖人は、其の身を後にして、身先んじ、其の身を外にして身存す。其の無私なるを以てに非ずや、故に能く其の私を成す。


 「以其不自生」は「其の自ら生きざるを以てなり」と読んでしまいそうだが。まあ、またしかし、この書き下し文を現代語というか、わかるように解釈するのも手ごわいですね。一見すると相反することが並んでいるように見えます。「天地が永遠に続く理由は、自らを生かしていこうとしないから、だから長生きするのだ。聖人は其の身を後にすることで、その身が先になるのだし、其の身を外に置くことによって、その身が中にあることになる。それは無私であるからではないのか、無私であるからこそ私を成すのだ。」うーむ。禅問答のようです(笑)。ま、詳しくは先の保立道久先生の解説をお読みいただくことにしましょう。『老子』を説明するのは、百姓の手に余ります(笑)。


 ただ。
 「しかし、「天長地久」という言葉それ自身も『老子』にあっては決して単に目出度いというものではなかった。『老子』五章には「天地は仁ならず」「聖人は仁ならず」という強烈な思想があることは少し前に紹介した通りである。天地は人間とは関わりなく存在して人間を吹き飛ばすものでもあったのである。老子は、そういう天地と歴史の現実をふまえた上で、人間は天地と同じように、「自らを生ぜざる」という覚悟をもたねばならないというのである。これは自己意識の過剰を放棄するということであろう。」という保立道久先生の言葉は心に留まりました。自然は私たちにさまざまな恵みをもたらしてきてくれていますが、時に地震だ、台風だ、洪水だ、津波だと暮らしを脅かすのも事実です。「自己意識の過剰を放棄する」って難しいことだけれど要するに「無為自然」ということなのだろうか。


 「サステナブル」(sustainable)という言葉が最近は大はやりで(「ガバナンス」governanceも「エビデンス」evidenceも、普通にテレビの日本語の会話の中に登場してくるようになって、ずいぶん煙に巻かれてきたのですが(笑)、最近はすこし慣れてきました)、「持続可能な」というような意味なのだそうです。(赤尾の『豆単』とか『しけ単(試験に出る英単語)』には出てきてたのかな(笑)?)


 サステナブルな、持続可能な社会や世の中にしていこう、という動きがありますが、まあ、当然なことで、普通は誰もが社会や世の中はサステナブルな、持続可能なものだというのが大前提で暮らしていますからね。でもだんだん世の中は、地球はサステナブルな、持続可能なものではない、と思わせられて来ています。それはたとえば地球の温暖化だったり、急激な人口増加だったり、原発の事故だったり。
 農業はもともとはサステナブルな、持続可能なものだと思われてきたけれど、過剰な化学肥料や薬剤の使用で農地がやせてきていると言われています。そうしてだんだんサステナブルな、持続可能なものでもなくなってきているのではないか、と心配されています。もっとも地球の温暖化がすすめば今のような農業は続けられなくなります。
 「天長地久」といい、「天地長久」といい、「天壌無窮」といって、安心していられる場合ではないということは、みんなウスウス気がついているのだが、身動きできないでいるということなのかなぁ、と。


 というようなことをぼんやりと考えていたら、開高健がよく色紙に書いていたという「明日世界が滅びるとしても、 今日君はリンゴの木を植える」という言葉を思い出した。これもまた解釈の難しいというか、いろいろ解釈できそうだけれど、もともとはマルティン・ルターの言葉を利用したものらしいです。
 もちろん百姓の私は、リンゴの木ならぬ稲の苗を植えるしかないのです。何があろうと、明日世界が滅びるとしても、静かに心穏やかに、去年と同じように、今年も稲の苗を植える。
 「Study to be quite.」というのもありましたな。


24日(水)
 朝から晴れているが、やはり風が冷たく寒い。
 今日は午後は県のオーガニック栽培の研修会に参加の予定。
昨日と同じ紙、同じインクなのだが、ペンはガラスペンでなくGペンを使ってみた。北海道産大豆を使った「とろける豆腐」をいただく。これでいいのだ。