現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

今日も雪降り。


今朝の積雪は30cmほど。昨日の朝より10cmほど増えている。犬の散歩の前に雪かきをして、奥さんの車が出られるようにして、あちこち雪かきをしてから、レノン号を連れて雪中散歩。iPhoneで動画を撮ろうとしたのだが、寒さのためか、いいところで電池切れ。リードを放して、雪原を(って、雪の田んぼだけど)走り回る様子を撮る算段だったのだが。犬が喜んでいる様子が面白かっただけに、いささか悔しい。
夕方も奥さんの車が入ってこれるように雪かき。昼間は子どもたちが少し雪かき。
今日もまあ終日雪降りというところ。
午後は地域の広報紙のレイアウト作業。あともうすこし。


iPadを充電しようとしたところ、ぜんぜん充電していない様子。これはいかん、故障かとおもってネットであれこれ調べてみると、あまりに低温だと充電できないことがある、という記事を発見。うーむ。いや、私の部屋は暖房がないので、恐ろしく寒いのです。それでストープのある部屋で少し温めてみると、充電できるようになりました。うーむ。
そんなことを調べていたら、娘が無線LANが繋がっていない、と言ってきた。うん?と思ってiPhoneで確認すると確かに繋がらない。モデムとルーターを再起動させてみると、なんとか復活。
ところが基幹のiMacもなんだか動作が極端に遅くなってきているようなので、再起動してみると、なんと途中で止まってしまって再起動できないではないか。五回、六回と再起動をかけてみるが、同じように途中で止まってしまう。いやー、昔のMacOS の時はこういうこともよくあったのだが、新しいMacOS X になってからは、ほとんど起こらない現象だったので、どうするとよかったのか、忘れてしまっていて、あれこれ考える。ふと思いついて外付けのハードディスクを外して再起動すると、ふふふ、うまく起動してくれました。そのあとハードディスクを繋いでみるとちゃんと認識してくれて、何事もなかったかのように動いてくれるようになりました。うーむ。いや、私の部屋は暖房がないので、恐ろしく寒いのです(笑)。


今朝の日本農業新聞のコラムにJT生命誌研究館長の中村桂子氏が「災害に学ぶ自然への畏敬」という文章を寄せている。以下その要約。

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年末になり1年を振り返ってみると、今年は自然災害が印象に残る。中でも大きかった東日本大震災はもちろん、いずれの災害も、その回復は年を越しても続く長期戦となることを覚悟しなければならない。
地震津波、台風、豪雨などは確かに自然災害だが、近年はその被害に大きく「人災」が絡んでいるのが特徴だ。特に東日本大震災での東京電力福島第一原子力発電所は、そもそもその立地地点の選定に問題があったのではないかという問いが出されている。自身の専門家が「三陸海岸津波常襲地帯である」と言っているのにそこに施設を作り、津波が起きたら「想定外」であったと言うのはおかしいという指摘である。
この問題に向き合うと、現代社会が人間は自然の一部として存在しているという基本を忘れ、自然離れすることを進歩と評価してきたという大きな問題点が浮き彫りになる。原発事故の場合、放射能汚染という課題への対処が不可欠なので、それを忘れることはしないと肝に銘じながら、ここではこの自然離れという根本問題を考えてみたい。
東日本大震災の後、実感したのは、政、官、財、学会の方、評論家やジャーナリストの発言よりも、農民や漁民など地元の生活者の言葉の方が心に残ったということである。そして、それは自然と向き合っている強さであることに気づいた。
様々な震災報道のなかでも、放射能で汚染され、今年のコメ作りは無理と分かっている田んぼに水を入れたという話は特に印象に残っている。「今年もツバメがやってくるだろう。彼らのために水を入れなければ」という言葉には正直驚いた。
現代社会の価値観、つまり全てを生産、経済、効率で判断する中では、この行為は評価されないかもしれない。感傷と受け止められるかもしれない。しかしそうではない。ここには自然を全体として捉えている素晴らしいい価値観があるのだ。この言葉の持つ大きさと深さに私たちは気づかなければならない。
現代文明は都市化により自然と離れた。人間は生き物なのだから、安全なものを食べたり、清浄な空気を吸ったりすることが不可欠であり、自然と離れることなどできるはずがないのに、人口環境を作ってそれを快適化し、すべてを金銭で解決しようとしてきたのである。そのような考え方ではどうしても農林水産業を軽視することになる。
しかし、ここで考え直そう。自然を全体としてみると、それは資源として産業を支える面、美しさを見せ心和ませてくれる面、時に暴れて災害後もたらす面と多様な顔を持っているのである。しかもそれぞれの面が独立にあるわけではなく、自然としては一つなのである。自然離れをして、産業を支える面を疎かにすれば心を和ませる自然も消え、災害も起こりやすくなるのだ。
農業という産業に携わっているが故に、田んぼを単なる人間のための生産の場ではなく、ツバメが生きる場でもあると見ることができることの意味も考えなければいけない。自然は一つであり、その中で生き、怖さも充分知った上で、それを活用したり楽しんだりする生活をしていくのが人間生活の基本だという事を再確認しなければいけない。農林水産業を基幹産業の一つとして位置づけること、これが多くの災害から学び、次に活かしていく大事なことだと思う。
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このところ、この手の打込みはiPhoneの「Dragon Dictation」を使うようにしているので、あまり苦にならない。ゆっくり区切って読めば、かなりの精度で音声入力できる。僕はキーボードでの入力でもそこそこのスピードで打込めるのだが、どちらが速いかな?音声入力は変換ミスのチェックや改行の入力で再点検にちょっと時間がかかるので、あまり変わらないのかもしれないが、あまり疲れないので、ちゃんとした原稿がある時で、声を出しても周りに迷惑にならないのなら、楽ではあります。
この精度で、来年iPhoneのSiriが日本語対応して日本語で指示が出せるのなら、大いに楽しみ。って、これ書くの三回目かな。うーむ、いかに僕がSiriの日本語対応に期待しているかがわかりますね(笑)。


続いて同じ日本農業新聞のコラムで石垣りんの「地方」という詩が紹介されていた。石垣りんさんが亡くなって今日で7年なのだそうだ。この詩も読んで知っていたのだが、長い間忘れていた。


   地方    石垣りん

  私のふるさとは
  地方、という所にあった。
  私の暮らしは
  首都の片隅にある。
  ふるさとの人は山に木を植えた。
  木は四十年も五十年もかかって
  やっと用材になった。
  成人してから自分で植えたのでは
  一生に間に合わない
  そういうものを植えて置いた。
  いつも次の時代のために
  短い命の申し送りのように。
  もし現在の私のちからの中に
  すこしでも周囲の役にたつものがあるとすれば
  それは私の植えた苗ではない。
  ちいさな杉林
  ちいさな檜林。
  地方には
  自然と共に成り立つ生業があったけれど
  首都には売り買いの市場があるばかり。
  市場ばかりが繁栄する。
  人間のふるさとは
  地方、という美しい所にあった。


やっぱり。いいですね。それでこの詩に刺激されて「儀式」という詩も思い出したのだが、長くなるし、紹介するのは明日にしましょう。
おやすみなさい。