現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

小麦の播種を開始したことと陶淵明

今日から小麦の播種。午前中は天気が良かったけど、午後から時雨れてきた。天気図が西高東低になってくると北西の風が吹いて時雨模様の天気となるんだなぁ。このあたりは北陸と同じ日本海性気候なのでこんな風になります。
昨日の昼前から雨は降ってないし今日も天気は良さそうだと予報も出ていたので小麦の播種をしました。父にトラクタで起してもらって、僕が動噴で小麦の種をバラ播きします。完全にきれいに乾いているという風でもなかったのですが、なんとか播種できました。


午後からはどうも雲行きが怪しいなぁと思っていたら案の定、時雨れてきました。やれやれ。一時間ほどで止んだのですが、まあ、なんとか思っていただけは播種できました。ちょっと濡れてからだが冷えてしまった。うまく芽が出てくれるといいのですが。


大石学『江戸の教育力』(東京学芸大学出版会)読了。徳川吉宗享保の改革のお話が中心でしたけど、きちんと国民みんなが読み書きができてそこそこの計算力があるっていうのは、今の日本では当たり前のように思われているけど、そうでない国もたくさんあるわけで、農業も国の基礎だけど、教育も国の基礎基本なんですよね。親は子供に賢い子になって欲しいと願うわけだし。と、ここまで書いてきて中国の詩人陶淵明を思い出した。
高校生の時の漢文の授業で陶淵明の『帰去来の辞』を習っていたとき、先生がおっしゃった「陶淵明はこんな風に田園生活や晴耕雨読の隠遁生活へのあこがれを謳っているけど、自分の子供のことについてはあれこれ心配してたみたいなんやで。陶淵明も人の親ちゅうわけやね。」「子を責む」という詩があるんですね。


 責子        子を責む
白髪被両鬢     白髪 両鬢に被り
肌膚不復実     肌膚また実ならず 
雖有五男児     五男児有りと雖も
総不好紙筆     総べて紙筆好まず
阿舒己二八     阿舒はすでに二八なるに
懶惰故無匹     懶惰なること故より匹なし
阿宣行志学     阿宣は行くゆく志学なるに
而不愛文術     しかも文術を愛さず
雍端年十三     雍と端は年十三なるも
不識六興七     六と七とを識らず
通子垂九齢     通子は九齢に垂んなんとするに
但求梨興栗     但だ梨と栗とを求むるのみ
天運苟如此     天運 苟も此くの如くんば
且進杯中物     且つは杯中の物を進めん


私はもう白髪が左右の鬢にかぶさって、皮膚にも色つやがなくなってきた。
五人の男の子がいるけれども、どいつもこいつも勉強がきらい。
舒(じょ)のやつめは二八の十六歳にもなるというのに、以前から無類の怠け者。
宣(せん)のやつめももう十五、学問に志す年というのに、いっこう文章学問の道が好きでない。
雍(よう)と端(たん)とは十三歳、それなのに六と七とで自分の年になることもわからぬ始末。
通(つう)はまもなく九つだが、梨だ栗だとおやつをねだっているばかり。
これもまったく私におわされた運命だというのなら、あきらめてまあまあ酒でも飲んでいることにしよう。


そんな授業を受けたわけです。いやあ、やっと陶淵明の詩がよくわかる、今日この頃です。