またしばらくあいてしまいましたが、どうやら作業所の乾燥・調整仕様への改変も概ね終わりました。うーむ。暑くて作業所の二階になんか30分も上がっていられない。やれやれ。
何か書くこといつも思いつくんだが、時間が経つと忘れてしまう。新聞を読んでいるとあれこれニュースがあって、リビアや民主党の代表選挙とかありましたが、思いのほか大きなニュースとして取り上げられていたのが、Appleのジョブス氏の退任の記事。朝日は第二面の右上にけっこうなスペースで報じてました。いささかびっくり。
天気は今日は夕立がありませんでしたが、昨日までは午後に決まって雨が降っていました。お隣の農家は極早稲の「あきたこまち」の刈り取りが思うように進まないとおっしゃっていました。雨が降ると濡れて湿った籾や藁がコンバインにつまってしまうので、稲刈りが出来ないんですよね。朝露や雨は稲刈りには邪魔になります。ざっと降ってまたしばらくすると晴れてくるのですから、泣かされます。
26日付の日本農業新聞の「にっぽん未来図 農へのまなざし」に臨済宗福路聚寺住職で芥川賞作家の玄侑宗久氏が文章を寄せている。以下、その要約。
今の社会は市場経済が隅々にまで行き渡り、大規模なシステム化が進んでいる。農業も例外ではない。工業製品と同じ感覚で消費者からは、均質な農産物が求められる。大量にできると、質に関係なく価格が安くなる。一部には有機野菜への関心もあるが、消費者が求めているのは「有機栽培の雰囲気がする工業製品のような見栄えのいい野菜」でしかない。
根本にあるのは消費者の「面倒くさい」という思いであり、消費者が愚かしいと感じる。もっと食べることにエネルギーを使ってもいいのではないか。
何が幸せなのかを考えると、売れれば売れるほど良いというのはありえない。何でもほどほどを目指すべきで、程を越すからおかしくなる。
市場原理からいえば、お寺も檀家をどんどん増やせばいいのだろうが、それでは住職として全員のことをよく知ることはできない。だから私の寺では20年以上檀家は増やしていない。物事には適正規模といのがあり、それで生活が守れるように国は配慮しなくてはいけないはずだ。
グローバリゼーション(国際化)ばかりが強調されるが、社会を外へ開いていったときに勝ち抜くには、どうしても大規模なシステムが必要になる。逆にある程度狭い地域で地産地消する“閉じる社会”という考え方も大事になってくる。
農業でいえば、市場原理を徹底すれば、結局は競争力がある安い輸入食品に頼ることになる。自らは食べないかもしれない海外の人が生産する食料に頼るのは、極めて危ない。見栄えしか気にしなくなるからだ。
ところが今回の福島第1原発事故による放射能汚染で、地産地消とばかりも言えなくなってしまった。「諸行無常」という仏教の基本も言いにくくなった。諸行無常は、今栄えているものが長くはつづかないとか、今駄目でも少したてば事情は変わるから悲観しないで、という両面の意味がある。日本人の生活感覚を表す言葉だ。しかし放射性物質の半減期はものによって30年、数万年、数億年とあまりに長い。
特に農業へのショックは大きいだろう。農家は自分の感覚や経験を積み重ねて農産物の出来を判断してきたのに、それが否定され出荷できなくなる。努力とは関係なく、機械で測定した放射性物質の数値による審判を仰ぐしかない。農業の基本である土地も汚された。この状態が続けば、農家にとっては生きていられない事態だ。
技術開発を含め諦めずに除染することが大事だ。大概のことは人間が手をかけるといい方向にはいかないと思うが、今回ばかりは人間の力を使って自然と共同して“無常の力”による浄化を期待したい。
たぶんインタビューの聞き書きなのだろうと思いますけれど。玄侑宗久氏の文章って読んだことないんですけれどね。ちょっと心に引っかかりました。
医療や教育といったものは市場経済システムとはなじまないものだけれども、農業もまた市場経済的な考え方だけではうまくいかないものでしょうねぇ。なんといっても日々の食べ物のことですからね。
「ほどほどを目指すべき」というけれど、これほど難しいこともありませんね。インフラの整備や家電製品が揃い、煩わしい家事は簡単に短時間ですませることの出来るようになってきましたが、よい食材を揃え、健康や好みを考えて家族の食事を準備する、家族みんなで食事をとる。そういうこともいささか煩わしいことになってきてしまっていないといいのですが。
東直己『バーにかかってきた電話』読了。いいねぇ。この人はハードボイルド小説のツボを心得た書きっぷり。って当たり前ですが。ススキノかぁ。ケラー・オオハタでカクテル飲んでみたいな(笑)。
明日か明後日から稲刈り開始予定。