現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

片山修監督『岳』と伊集院静の文章


片山修監督『岳』をDVDで観る。うーむ。石塚真一の山岳救助漫画の実写化映画なんだが、うーむ。漫画の方はけっこう好きで、8巻ぐらいまで買って読んでいる。でも主人公島崎三歩を小栗旬がやっているというのが、どうも、いけないような気がする。島崎三歩はあんな顎の尖った爽やかなイケメンではないような気がするのだ。長澤まさみは思いのほか好演。佐々木蔵之介も山男のイメージがから遠いなぁ。阿久津敏夫役の石田卓也。うーむ、『蝉しぐれ』や『夜のピクニック』のときは大根のような演技でしたが、一番山男っぽい、いい顔になっているような気がしました。
僕なら、もっと雪の山での生活やキャンプの楽しさや面白さも撮るけれどなぁ(笑)。滋賀の雪山で何度かテントを張って過ごしましたが、ほんとに寒いですが、体力をつけて、気をつけること、守るべきことをきちんとして準備をしておけば、また楽しくもあります。


夜は寄り合い。


金曜だったか木曜だったかの「日本農業新聞」に作家の伊集院静の文章が載っていました。たぶん記者の聞き書きでしょうが。以下その要約。

====================================================

文学と農業は無縁ではない。日本最初の文学の主人公たちは農耕人だった。例えば『竹取物語』の老夫婦は農閑期に竹細工などをしていた山に住む農家だ。
幼い頃、周りに田畑がたくさんあった。春、水を引き始めると農家が田植えをする。一晩明けると苗がきちんと植わっている。夜、田んぼに映る「田毎の月」は美しかった。梅雨が過ぎ入道雲が出始めたらカエルが一斉に鳴いて「夏だな」と気づき、秋には稲刈り… 。稲田から感じる四季の巡りが日本人の中にあったはずだ。
子供たちは食事をするとき「一粒も残さず食べなさい。米を作るのに一年かかるんだ」と教えられた。農家が自分たちを支えてくれているというのが親の教えにあった。だから農家のことを書きたいと考えていて、昨年12月に発表した推理小説『星月夜』で農耕を根底のテーマにした。
自給自足という、自分たちが食べるものは自分たちで確保して生きていくことが人間の営みの基本だ。
しかし戦後「外国製が良い」という意識が日本人に植えつけられ、同時に「便利」を主軸に経済成長を遂げた。釜でご飯を炊くよりトーストしたパンの方が良いと言い出した。その時「世界一おいしい日本の農産物を食べよう」という教育ができなかった。50年、100年先を見る見識が必要だったのに政治家や関連団体にはそれがなかった。
歴史は繰り返す。食料がなくなったらどうするのか。農家が米を作らなければ誰が作るのか。農業を潰すと国が傾く。何十年先も国際競争に耐えられる政策が必要だ。
世界でトップクラスの日本の技術を海外に広め、利益につなげる方法を考える。かつ、日本の技術を広めることでアジアの生産力を上げていけばその国の購買力が上がる。世界全体の生産力も高めていく。
一番の問題は、物を生産せずに利益を上げるファイナンス(金融)が国際競争の主力になっていることだ。物を作らない社会が人を幸せにすることはありえない。では、物をつくるとは何か。どれくらい作れば良いのか。企業は基本的にいくらでも作り続ける。「人間はどの程度の暮らしをすればいいのか」という観点が欠けている。
「今の時代は、どういう風に暮らすことが理想なのか」を追い求めなければならない。文学も絵画も音楽も、人間を豊かにするために存在する全ての分野は、そこに的を絞らないといけない。基準になるのは、社会が生まれた時の基本的な暮らし、それは農家、漁師、大工の暮らしだ。
聖書にもコーランにも農家の暮らしが基本だったとある。豊作の年は少しぜいたくし、凶作に備えて蓄える。質素なだけではない豊かで基本的な営みだ。農家が受け継いできた生活の中に、社会全体の思想・哲学があるのではないだろうか。
====================================================



昔、開高健が、“子供のころ、まだ大阪のあちこちに自然が残っていて、大きなトンボが緑色の目玉を輝かせながら、スィーと飛んでいた。よくトンボを追いかけたし捕まえた”というような話をいくつか文章にして、発表しているのだが、そうしたら虫マニアから、“たぶん開高先生はそんなにトンボを追いかけてもいないと思いますよ、大阪の虫好きの少年はトンボのことをトンボとはだいたいあんまり言わないんです。みんな当時は“ヤンマ”と言うていたんですよ。”などとどこかで書かれていたのを読んだことがあります。
伊集院静のこの文章も前半「梅雨が過ぎ入道雲が出始めたらカエルが一斉に鳴いて「夏だな」と気づき、秋には稲刈り… 。」というところがありますが、これがだいたいおかしい。だいたい入道雲が出始めるころには、もうあんまりカエルは鳴いていません。カエルが一番鳴くのは春、田んぼに水を入れる頃です。田んぼに水を入れたとたんに、あちこちでカエルが鳴き交わし、交尾し卵を産みます。伊集院静はさすがに美しい文章で立派にお書きになっていますが、もうこの一点で、途端に文章全体が薄っぺらく感じられてしまうのは僕だけか。
まあ、この文章は『星月夜』の宣伝でもあるのでしょうから、ま、いいのですが。それにしても推理小説『星月夜』は農耕が根底のテーマになっているのか。うーむ。