現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

 自由律俳句と「物語性」

tsujii_hiroaki2014-12-11

妙なことを、ふと、思い出すものである。
大学の三年生だったか、同じ研究室の五年生の先輩の卒論について、話を聞いた。大学の四年生、五年生(えーっと、私の通った学校は四年制の学校でしたが、五年生の先輩がおられましたし、私も勉強が大好きだったので・・・(笑)。)の先輩は、ま、この時期、この季節になると、卒論だけでなく、就職のことやら、卒業後のことやら、いろいろあるので、あまり演習室に顔を見せなくなるのですが、ふとそのIさんが顔を見せてくださって、「うまいインスタントコーヒーを見つけたので、みんなで一緒に飲もか」などと、関西弁でおっしゃるのである。お湯は僕が電気ポット(?)で沸かしました。インスタントコーヒーは、うまかったのか、忘れてしまったが、「ネスカフェは芋の味がするな」というところで、意見が一致したりしたのです。ええ、当時の安いインスタントコーヒーは、芋を焦がしたような味がしたのです。ええ。
で、聞いてみたのです。
「久しぶりですけど、卒論は何を書いてやーるんですか?」
ふふふ、今から考えるとなんとも直球の質問ですな。すると、吸っていたタバコの煙を鼻から豪快に吹き出して、「あのな、小説の「物語性」についてな、考えてるんや。」とおっしゃる。
たぶん、最近の大学生は、こんな風に、鼻から豪快に煙草の煙を吹き出すこともしないと思うし、「〜についてな、考えてるんや。」というような、物言いもしないと思う。いや、たぶんだけど。
たぶんその「物語性」についての話をその後聞いたはずなのだが、残念ながら全く覚えていない。ただ、「物語性」というフレーズは妙に頭に残っていますな。小説なんだから、物語なんだから、「物語性」があるのは、あたりまえじゃないですか?と言いたくなるが、小説という散文のジャンルは、とにかく自由なので、70年代後半から80年代前半は、物語性ということが、希薄だったのかもしれません。ま、小説は自由ですわな。
さて。
で、せきしろ又吉直樹『カキフライが無いなら来なかった』である。昨日のブログで面白かったと書いたのがだが、いや、面白いのです。自由律俳句とエッセイと写真からなる文庫本ですが、僕はメインの自由律俳句以上にエッセイに高い評価をおきます。でもそれは、この二人の自由律俳句(?)のもつ、「物語性」が素晴らしいからです。だから思いのほか、読了に時間がかかります(笑)。


 大人なのに行きつけの店がない
 自分だけ助かっている想像をまた
 電器店のビデオカメラに写る思った以上に老けている
 住宅街にぽつんとある蕎麦屋
 住んでいないと思って覗いたら住んでいた
 着ぐるみのバイトがこっちを見ている


たとえば、こんな自由律俳句。「それがどうした。」「だから何だ。」と言いたくなるのはわかるが、それは禁句である。
俳句は五七五だけど、自由律だから季語もないし五七五にもなっていない。
俳句は五七五だから、短くて、一瞬の風景を切り取って、写真のように提示する、という意見もあるが、一瞬の景で、物語を想像させるという技もあるだろう。
はい。僕は短い自由律俳句に「物語性」を感じてしまったのですな。「大人なのに行きつけの店がない」別に大人だからといって、行きつけの店がなければならないことはないのだが・・・。でもこの屈折に物語が生じますわな。いや、この発見は、僕が好きな種田山頭火の自由律俳句とも、またちょっと違うのだな。
山頭火には(放哉にしても)、一瞬の芸術性がやはり感じられるのだが、せきしろ又吉直樹にあるのは、日常性である。一瞬の短い切り取られた日常の中の物語なのである。


例えば。


 奥さんではない


これはせきしろ氏が出演された高橋源一郎氏のラジオ番組に寄せられた自由律俳句なのだが、この八音の自由律の句から、私の頭のなかには、なんだか様々なドラマが展開してスバラ式自由律俳句になっています。ユーモアがあり、叙情があり、色っぽさがあり、ドラマがあり、物語がある。


僕はもう20年ほどから、俳句をひねりはじめて、インターネット前夜の「パソコン通信」の句会から始めました。概ね定型の句を詠むようにしています。農業をしていますから、季節感は身にまとっているような感覚はありますが、農業を句にするのは、何故だかとても難しいです。
ま、僕の進歩や上達はともかく、言葉をあれこれひねくり回した挙句、その句が黙殺されたり、ちょっとコメントをいただいたりするのが、大きな喜びでもあります。
たぶん、その根底には、「物語性」というのが、流れているような気がしています。ほんの17音ほどしかないのに、不思議ですが。
たぶん、そこそこ歳をとった大人は物語を求めているんじゃないでしょうか。もちろん、それは自分の世間、自分の世の中、自分の世界とコミットするものでしょうけれど。


もちろん、この勢いで、せきしろ又吉直樹『まさかジープで来るとは』(幻冬舎文庫)に突入するのである。