現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

養老先生のコラムとコースター

サーフィンのコースターのお土産

昨夜から降り出した雨は一晩中降って、午前中10時頃にあかる。朝、田回りに出たら土の田んぼも満々と水をたたえていた。ま、よい雨ではあります。
もう二週間ほども前の日本農業新聞のコラムで養老孟司先生の文章が載っていて、おもしろかったので新聞をちぎって残しておいたのですが、ざっと要約。
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世間一般的な傾向として、実行力が弱まったということがないか。若者は動かないし、年配者は文句が多い。体を動かしていると、あれこれ意見を述べても仕方がないという気持ちにもなる。何はともあれ、やらなきゃしょうがない。それが人生だと思うのだが。
私は解剖学を専攻したがこれは自分が動かないとどうにもならない世界だった。今やっている虫採りも同じである。私の調べているようなどうでもいいような虫は採る人もほとんどいない、まして売っているはずもなく、自分で採らないことには埒があかない。
一次産業というのは、これと似た性質を持っている。あれこれということはできるが、結局は自分がやるしかないのである。
『変わる家族 変わる食卓』の岩村暢子さんの調査によると、日本の主婦の五割は、言っていることとやっていることが反対だという。
たとえばお節料理。「自分は日本の文化と伝統を守りたいと思っています」とアンケートに書く。でも実際はスーパーで適当に買ってきて、きれいに並べる。亭主の実家に行けばお客さんだから、台所になんかには立たない。ゆえに姑に料理を習ったこともない。自分の母親にも料理は習わなかった。母親が自分でさっとやってしまう。
以前は年寄りが若者によく注意していた。『偉そうに言うけど、やってみな」と。若い時には私もよくそう言われた覚えがある。でも、主婦の五割が頭で思っていることとやっていることが違うというのは、考えてみれば恐ろしい。子供たちがそういう世界で育つことになるからである。
大学で教えていたころにも、確かにそう思った記憶がある。今の学生さんたちは。もっともだと思うことでも即座に実行はしない。頭で考えて、そうするものだと、とりあえず納得はする。でも、実行は「いずれそのうち」の話なのである。そうやって暮らしているから、本当の意味での考える癖が付かない。頭で考えるだけなら、論理的な可能性はすべて同じである。
だが物ごとは「やってみなければわからない」という面を必ず含んでいる。その判断には、現実をよく見て、うまくいくかどうか蓋然性をを考える必要がある。でもそれが面倒くさいらしく、『わからないからやめとこ」とくことになるらしい。
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といういかにも養老先生らしい文章。でも思い当たることも多いようなおもしろい文章です。『百姓は毎年一年生」と言われたりするけど、その時その時やってみなければわからないし、埒が明かない、というのもその通り。言っていることとやっていることが反対だ、というのもすごく納得できるような気もする、世の中の風潮として。


午前中はふと思い出してpythonの勉強。基本の基本に戻って文字列の操作やら整形など。CGIのモジュールのことを調べていたのだけど、基本の基本がわかっていなかったりするので、なかなかスクリプトが読み進めないのだ。やれやれ。しかし文字列操作の勉強をしているとHyperTalkやAppleScriptのことが思い出される。pythonはどことなく書き方がHyperTalkやAppleScriptと似ているようなので選んだ言語なんだけど、どうやらそれも錯覚のような気もしています。わからないことが多いのは、CGI関連でApacheの知識もいるからだろうなぁ。いやはや。というか、やれやれ。


そういや先日、新婚旅行のお土産をいただいた。オーストラリア土産である。サーフィンの絵のコースターの6枚セット。夏にはまだまだだけど、これでビールなどちといいものですな