現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

稲の株のサンプル測定と日本人の米の消費減のことなど

菜の花の双葉の間から本葉がでる

5日(木)
ムシロの上にひろげてある大豆もだいたい乾燥できてきたので、選別機に入れて選別。
午後、選別機のところに持っていったら選別機が3台とも使用中だったので、しばらくナタネの圃場をみてあるく。双葉の間から本葉が一枚出てきている。
今年は動噴でナタネの種を蒔いたのだが、風が強すぎて土の上に落ちた種が吹き寄せられてしまったのか、あんまり芽の出ていないところもあるんだなぁ。まだこれから出てくるのか。ちと不安。


夜は道路拡幅工事がつくっている田んぼのそばで行われるので、その説明会。


6日(金)
良い天気。風もない。
稲刈りのときに各田んぼからサンプルとして一株根ごと、土ごと抜いてきておいた一株の茎数や米の粒数、節間の長さなどを計測する。
去年から始めたので長年のデータの蓄積というようなものはないのですが、去年と比べると(去年はすばらしい豊作でした)、早稲の「コシヒカリ」に関しては、稈長は伸びています。要するに背が高かったということですね。茎数はあまり変わらない感じ。粒数もあまり変わらない感じですが、少し収量が落ちたのは、粒の大きさが小さいというか細いというか、そういうことだったのではないかと思います。米選機から落ちる量も多かったですしね。稈長が伸びた分、節間も伸びました。下部の節間が伸びた分だけ倒れやすかったのだと思います。
晩生の「秋の詩」に関しては、稈長はやはり去年より長くなっていますが、粒も大きく収量もあまり落ち込んでいません。茎数、粒数ともにあまり変わらずという感じでしょうか。
田植えの時期や植え付け本数、坪当たりの株数等、植え付けの条件によっても変わってきますが、やはり一番大きいのは天候でしょうねぇ。夏の日照不足が大きいと思います。でもそういう悪い条件にも負けない元気な稲を育てないといけませんね。
辻井農園のお米、元気いっぱい、おいしいお米です!とアピール。


新聞の報道によると今年はもひとつ新米の売れ行きに伸びがないのだと大手の米卸業者が語っていた。おかげさまで辻井農園の新米は順調に買っていただいていてありがたいのですが、日本全体としては、今年の米の作柄がやや不良であったにもかかわらず、消費減や在庫で米不足にはならないだろうし、米の値段も全体に低調という話だった。やれやれ、というか、いやはや、というか。うーむ、と唸ってみるか。


少子高齢化というのがありますわな。食べ盛りの人が少なくなっています。で、お米の袋がなんだか重く感じるようになったり。さらに食生活の変化というのがありますね。食卓の洋風化。ご飯を炊くのとパンとトーストするのでは手間も時間も全然違いますからね。それと家族揃って団欒という食事がなくなって、食事をつくる人も、もひとつ、つくり甲斐のないものになりつつあるのかもしれませんね。うーむ。と唸ってみる。
おいしいご飯、どんどん食べてくださーい!とビックリマーク付きで叫んでみたり。


桂枝雀さんの創作落語で「戻り井戸」というのがあります。
酒癖の悪い都会暮らしの人間が酒に酔っぱらって田舎の野井戸に落ちているところを百姓に助けられるという話です。助けられてどぎまぎしているところを落ち着かせようと百姓にまたお酒を飲ませてもらいます。お礼やらおべんちゃらで、最初は田舎の地酒や田舎暮らしを褒めているのですが、酔ってくるにしたがって、酒癖の悪さが出てきます。田舎暮らしをバカにし、都会暮らしの便利さや幸せを語って百姓一家にうだうだとからみます。「こんなところに住んで、生涯、幸せの味をしらずに死んでしまうのかね。笑ってしまうね。」なんて。幸せは個人のものだし比較できるものではないことはよくわかっているつもりです。でもいっとき都会暮らしと田舎暮らしの差が縮まったように思えましたが、交通、通信の発達もありますしね、でもここのところまた差が開いてきているように思います、というか、幸せのベクトルの方向の差が開いてきているのかな。いやいや僕には幸せのベクトルを語ることは身に余ることですが、要するに格差社会ということなのかなぁ。価値の多様化だけではくくれないような気がします。


先日読了した澁澤龍彦『快楽主義の哲学』や、昔、何度も繰り返し読んだ坂口安吾の『堕落論』の背景にある、世の中や世間はどうであろうとも自分を信じて思うように胸を張って生きていけ、という叱咤激励が胸にしみる今日この頃です。