現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

「玩人喪徳、玩物喪志」と『生物としての静物』

枝から新雪が落ちてきた

一月尽。
よく降りますねぇ。昨日は比較的ましだったけれど、今日はまあ終日降っていました。チラチラだったりパッパパッパだったりしましたが。


iPadkeynoteで、外部出力使ってプロジェクターから映そうとおもったのですが、外部出力にすると、iPadでは操作画面になってしまって、iPadで映し出す画面が見られなくなるそうだ。うーむ、なるほど。
一年ぶりにkeynoteを触ってみる。ま、どうということはないのだが、あれも映せ、これも映そう、と他の役員さんからの注文で去年より枚数が増えてていっている。うーむ。


いつも観ているというか読ませていただいているブログに「九仞の功を一簣に虧く」というのが出てきたのですが、これが、わかりませんでした。ネットで調べてみましたら「書経」の旅獒篇にでてくる言葉でした。なるほど。なるほど。
この旅獒篇をちらちら見ていましたら「玩人喪徳、玩物喪志(人を玩べば徳を喪い、物を玩べば志を喪う)」というのが出てくるではないですか。玩物喪志!
開高健が『生物としての静物』のあとがきで「玩物喪志」ということを書いていたはずだ。釣り竿だのライターだの万年筆だの、あれだの、これだのについて、たくさん面白くかっこいい文章を書いたあと、最後に「玩物喪志」ということについて、小説家という小さな説を書くものの志を語っていたはずだ、と本棚から出してきたが、玩物喪志はどこにも見当たらず、出てきたのは「文房清玩」であった。うーむ。「文房清玩」もいい言葉です。確かに洗練の極みかも。
すると「玩物喪志」について書かれていたのは『白昼の白想』か『白いページ』だったか。
それにしても『生物としての静物』を拾い読みしていたら、次々にかっこいいフレーズや文章が出てきて、心に沁みます。万年筆のところで、夫婦関係は五十歳をすぎたら、お互いに慈悲で接しあえるようになるという諺がある、なんてことができてきて、“出会いからとたんに好きになれるというモノはないのである。飼いならし、書きならし、使いならしていくうちに好きなのとそうでないのとが出てくるのであって、それにはやっぱり忍耐がどうしても求められる。忍耐してもいいという気になれる物とそうでない物とがあるんであって、それは究極のところ、ブランドではありますまい。これは小さなことだけれど、じつにむつかしいことでもありますよ。”なんて言われてしまうのだ。


「玩人喪徳、玩物喪志」昔の人はうまいこと言いますな。
さて、百姓は積雪の真っ白い田んぼを窓から眺め、部屋で背中を丸めながら今年の田んぼの計画を練るのでありました。