午前中はお米の精米など。
郵便局にいったら「郵便局のデパ地下カタログ」というのが並んでいた。郵便局にはこんなかんじのギフトカタログが結構並んでいる。待ち時間にちょっと眺めてみたら、西武池袋本店デパ地下グルメのページに南魚沼産の「コシヒカリ」が載っていた。農薬と化学肥料の使用を半分以下にした特別栽培米ですが、2kgで2800円。5kgで6000円である。なかなかのお値段ですなぁ。これではなかなか日常的に食べてもらえる値段ではないような気がするが、ま、そうでもないのかなぁ。
今日はく旧暦の正月。旧正月。で二十四節気の「雨水」でもあるのですね。「雨水」は雪から雨へと変わり、降り積もった雪も溶けだす頃という意味です。実際にはまだ雪深いところも多く、これから雪が降り出す地域もありますが、ちろちろと流れ出す雪溶け水に、春の足音を感じます。ということだそうです。今日は新聞のコラムで、この「雨水」という語をいくつも見ました。
そのなかで、茨木のり子の『見えない配達夫』を紹介しているコラムがありました。有名な詩ですから、僕の持ってた『現代詩文庫20 茨木のり子詩集』(思潮社)にも載っていますが、ペラペラしていたら、こんな詩を見つけました。
「ぎらりと光るダイヤのような日」 茨木のり子
短い生涯
とてもとても短い生涯
六十年か七十年の
お百姓はどれほど田植えをするのだろう
コックはパイをどれ位焼くのだろう
教師は同じことをどれ位しゃべるのだろう
子供たちは地球の住人になるために
文法や算数や魚の生態なんかを
しこたまつめこまれる
それから品種の改良や
りふじんな権力との闘いや
不正な裁判の攻撃や
泣きたいような雑用や
ばかな戦争の後始末をして
研究や精進や結婚などがあって
小さな赤ん坊が生まれたりすると
考えたりもっと違った自分になりたい
欲望などはもはや贅沢品になってしまう
世界に別れを告げる日に
ひとは一生をふりかえって
じぶんが本当に生きた日が
あまりにすくなかったことに驚くだろう
指折り数えるほどしかない
その日々の中の一つには
恋人との最初の一瞥の
するどい閃光などもまじっているのだろう
<本当に生きた日>は人によって
たしかに違う
ぎらりと光るダイヤのような日は
銃殺の朝であったり
アトリエの夜であったり
果樹園のまひるであったり
未明のスクラムであったりするのだ
茨木のり子さんの若い時の作品です。いいなぁ。よくわかる。若さもありますね。もちろん最初の方の「お百姓はどれほど田植えをするのだろう」にピンときたのです。百姓をしていると「毎年、一年生」だとか、「米作りも、一生かけても50回ぐらいしか出来ない」などとよく百姓の先輩から聞きます。「お百姓はどれほど田植えをするのだろう」はそういうことを踏まえての言葉なんだろうと思います。「欲望などはもはや贅沢品になってしまう」なるほど。
毎日、一生懸命生きているようではあるが、ま、「日常」という言葉でひとくくりにしてしまう日々もたくさんありますね。じゃ、その「日常」や「繰り返しの日々」でない<本当に生きた日>を探したりしたい気になったりします。[ぎらりと光るダイヤのような日]。そうして「じぶんが本当に生きた日が/あまりにすくなかったことに驚くだろう」という感想もよくわかる気がします。
でも50歳を過ぎて、ゆっくり考えてみると「日常」と「本当に生きた日」の違いって、本当にあるのか、というふうにも考えてしまいます。ほんとうは「ぎらりと光るダイヤのような日」は、そういう日常の中にこそ眠っているのではないのか。
若い時には、「銃殺の朝であったり/アトリエの夜であったり/果樹園のまひるであったり/未明のスクラム」のなかにこそ「ぎらりと光るダイヤのような日」はあると思うものだが、銃殺の朝の激動はそうそうあるわけでもなく(あっても困るし)/作品を完成する喜びもそれが仕事となれば半ば日常となり/果樹園の収穫の真昼はやたらに忙しく/未明にスクラムを組む体力もすでにもうない。となれば、日常をこそ、ゆっくり振り返ることになります。そうして自分で自分の生きようの意味を考える、とまではいかなくても、一人でビールを飲んだようなときに、日常のまわりをウロウロしたくなるのです。ちょっと面倒だけど(笑)。