現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

フキノトウと『男の作法』と

池波正太郎『男の作法』

25日(水)
天気が良くて気持ちがいい。
午前中はお米の精米など。
午後は事務仕事などをしつつ、気分転換に田んぼを見て回ったりする。
夜は寄り合い。


26日(木)
曇り空であり、昼前から雨になる。しょぼしょぼと降る雨。
午後は入力作業を気合を入れてやる。
今日も夜は寄り合い。






先日見つけたフキノトウを少しだけとってくる。うちの田んぼの畦なので、除草剤もまったくやっていない。奥さんは「レノンの御叱古は大丈夫?」と言っていたが、滅多に畦など歩かないのでそれも心配はない。もっとも、近頃、キツネをよく見かけるので、奴らの行儀作法については、よくわからないのであるが。
採ってきたら、すぐ母が湯掻いてくれた。で、なんだかその辺りにあった味噌をつけてご飯の上にのせて食べたのだが・・・。いやはや。最初は爽やかな香りで、いい感じ、と思ったのだが、その後、強烈な苦味が口の中に広がりますな(笑)。ま、それでもやはりそれは春の味であり、苦味は身体の中を通り抜けながら、身体に春を知らせ、冬の間の滞ったものを集めて一緒に抜けさせてくれるような気がするから不思議だ。またそう思うと、これがまたうまいんだなぁ(笑)。


枕元に枕頭本にした本が積み上がっていたりするのだが、ふと見ると池波正太郎の『新編 作品対照版 男の作法』(サンマーク出版)が4/5のあたりで栞が挟んである。確認してみたら、最後が未読のままだった。うーむ。ちょっと調べてみたら2012年の1月に読んだ記録があるので、三年ほど経っている。朝、早く目がさめたので、布団の中で最後のところを読む。うーむ。僕は池波正太郎の上から目線の処世のムードがもう一つ肌に合わない気がしていたのだが、最後のところで、「あと自分が生きている年数というものは何年か、それが全部の基本になるんだよ」とあって、しみじみとしてしまった。いや、多分、そういうことなのだろう。
この辺りの浄土真宗のお寺さんでは、だいたい日曜学校というものをやっていて、第一と第三の日曜日の朝、小学校の子どもが門徒のお寺にいって、お経を唱えたり、ごエンさんからお話を聞いたり、おやつをもらったりするのだ。だいたい正信偈を習ったりするのだが、僕は今でもハッキリ覚えているのは、蓮如上人の白骨の御文章を読んで習ったこと。


「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。我やさき、人やさき、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あわれというも中々おろかなり。されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。」


というもので、こんなこと小学生にわかるはずもないのだが、ごエンさんは、人間のはかなさを話してくださったのをよく憶えています。限りある生命、死を思えば、自然と処世というか、生き方が変わってくる、と池波正太郎はいうのですな。で、今は、なるほどとしみじみ思うわけであります。


入力作業をしながら、退屈すると、先日飾った雛人形の写真を見ながら描いてみた。雪洞も描けばよかったのだが、とあとから思いながら描く。水彩絵の具で色付けしてみたので、乾くのを待ちながら入力し、乾いたら描いて、また乾くのを待ちながら入力したりする。いやはや。