現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

藁を散らかすこととフキノトウと森羅万象に多情多恨


17日(土)
晴れたが風が冷たい。
午前中は小さいトラクタのロータリーの爪をつける。培土板で大豆の溝切りをした時、外側の爪を何本か外しておいたのだが、付け直すのを忘れていたのだ。いやはや。
午後はまず奥さんのクルマのタイヤを交換する。簡単にすむと思っていたのだが、前輪の右側のナットが一つどうしても回らない。エアインパクトでも回らないので、柄の長いメガネレンチをはめて体重をかけても回らない。三本のタイヤは交換できたのに、一個のナットが回らないためにタイヤ交換が出来ない。やれやれ。仕方がないので、残りの三つのナットをまた締めて、近所の自動車屋さんに持ち込んでみた。どうやらスタッドレスタイヤをつけてナットを回したとき、ねじ山を外して曲がったまま無理やり回してしまったようだ・・・。ああ、またいらぬお金がかかるぜ。



その後、長男と田んぼに出る。秋の稲刈りの時、コンバインが刈取りをしながら藁をカットして田んぼに撒いてくれるのだが、その切り藁が台風の大雨で溜まった水に浮いて、強風に片方へ吹き寄せられしまっているのです。少々なら大丈夫でしょうが田んぼ一枚分の切り藁が隅に寄ってしまっているのですから、厚さが10cmほどになっているところもあります。こうなるとあとでガスが沸いて稲の根が痛むので、藁を散らしておかないといけないのです。だいたいなにより切り藁が10センチの厚さに溜まっているとロータリーの爪ではきちんと鋤き込めないと思います。ま、そんなこんなで長男にも来てもらって、二人で鍬でずるずる藁を引きずったりして散らかしました。思いの外重労働。4枚ほどばらまいたのですが、あんまり厚くなっている三枚は後回しにしました(笑)。



18日(日)
朝からよく晴れて気温も上がってきてうれしい。
今日は地域の農事組合の水路の掃除。午前と午後と。ああ、耕作者と地主さんに出役していただいて大変きれいになりました。しかしなんだなぁ、今年もゴミがひどくて泣けてくるぜ。コーヒー等の缶やペットボトル等々。道路脇の水路や田んぼはひどいですなぁ。いつからこんなことになってしまったんだろう。いやはや。


水路掃除の後、田んぼ道の穴ぼこにアスファルトを入れて農道の修復を役員でする予定だったのだが、諸般の事情で中止なり、時間が出来たので、また長男に手伝ってもらって昨日の続きで片寄ってしまっている切り藁をまた散らかす作業。今日は藁が厚く溜まっている田んぼだ。それで運搬車を軽トラに積んで運び、活躍してもらうことにした。この運搬車はクローラーがついていて少々の柔らかい田んぼでも動けるし、ダンプするので、積んだ切り藁もザザッと降ろすことができる。楽になったはずだが、なんせ厚く溜まっている切り藁で、冬の間に雪の下になってペチャンコになっているのに10cmほどの厚さがあるということは、もともとはもっと厚かったということだし、水を吸ってけっこう重く、運搬車に積むのがなかなか大変でした。いやはや、昨秋の台風のおかげでいらぬ仕事をしなくてはなりません。太陽が西に大きく傾き、一枚分しかできなかったので、またいつか続きをやります。そんなこんなで長男といっしょに大汗をかく。


夕方から曇ってくる。夜は雨。明日は終日雨らしい。


19日(月)
終日雨が降ったり止んだり。
お昼ごろちょうど雨が止んでいたので、長女のタイヤをノーマルタイヤに交換。今日はなんのトラブルもなくサクッと交換(笑)。
事務仕事など。


朝、犬の散歩の時にフキノトウがあちこちに出ているのを見つけて両手一杯分だけ摘んでくる。いえ、ヤッケのポケットに入る分だけです。それを台所に置いておいたら、母がすぐ湯がいて佃煮風にしてくれた。夜、日本酒を電子レンジでチンして、熱燗とともにいただく。フキノトウは天ぷらもいいけれども、母がいつもしてくれるように佃煮風にすると苦味と春の香りが鼻にツンときて、むちゃくちゃうまいです。子どもたちにも奨めたのですが、みんな箸をつけようとしないので、自分一人でちょっとづついただいています。春の苦味ですなぁ。



20日(火)
終日雨という予報だったが、午前中はそこそこ降りましたが、午後からはちょっと降るばかりで概ね曇り。


午前中は精米など。
それから次男がちょっと帰省してきた。


宇宙物理学者のホーキング氏の死去とか、書きたいことはたくさんあったような気がするのだが、四日分をいっぺんに書こうとすると、いささか無理が生じますな(笑)。


台所で「うどんのつゆ」を探していたら、無印良品の「アップルとジンジャーのティー」というティーバックを見つける。うーむ。数年前に買った記憶が蘇ってきた。無農薬有機栽培のハーブティーということになります。久しぶりに飲んでみたらジンジャーの香りが強いですな。アップルの香りも確かにしますが(笑)。でもこういうものはやはり何年も残しておくのではなくて、さっと飲んでしまわないといけませんな(笑)。当然ですが。



ほかになにかあったぞ。そうそう。「多情仏心」という言葉をFacebookのお友達の記事で見つける。知らない言葉だったのでさっそく辞書を引いてみると “人や物事に対して情の多いことが、仏の慈悲の心であるという意。また、情が多く移り気だが、無慈悲にはなれないこと。” とあります。また “感じやすく移り気であるが、人情にあつい性質。” とも。里見 紝の小説のタイトルでもありますな。未読です。なるほど仏様も多情であられたか。
これは以前にも書いた記憶があるが、武田泰淳が「青年よ、森羅万象に多情多恨なれ。」と言っていたのだと開高健が書いていたのを覚えています。僕はこの「森羅万象に多情多恨なれ」というのが青年時代から好きで、青年時代は遥か昔になってしまった今でもやっぱり好きです。「青年よ、森羅万象に多情なれ」というのなら、これはちょっと単純な気がする。といってもあらゆることに多情であるというのも、実際のところはむずかしいことはよく知っているつもりです。で、さらに多情であれば、多情であればあるほど、必然的に多恨ということになりますわな。ま、それこそが生きるということでありましょうか。
この「青年よ、森羅万象に多情多恨なれ」を思うとき、思い出すのが宮本武蔵の『五輪書』にあるという『我 事において 後悔せず』というもので、この武蔵の言葉を坂口安吾が、「もっとも、我事に於て後悔せず、という、こういう言葉を編みださずにいられなかった宮本武蔵は常にどれくらい後悔した奴やら、この言葉の裏には武蔵の後悔が呪いのように聴えてもいる。」と揶揄するように『青春論』の中で書いている。
今なら、何かをやりはじめてうまくいかなくなっても、またやり直せばいい。人生に無駄な経験は一つもない。人生はやり直しのきかないことばかりのように見えて、実はそういうものはわずかしかない。自分の選択を信じて生きていけばいいし、そうするしかない。というようなことは、他人様にはそうそうなかなか語ることはできないが、ここ十数年は、何度か、自分自身に向けてつぶやいてきた(笑)。
坂口安吾の『青春論』は、こんな書き出しです。「今が自分の青春だというようなことを僕はまったく自覚した覚えがなくて過してしまった。いつの時が僕の青春であったか。どこにも区切りが見当らぬ。老成せざる者の愚行が青春のしるしだと言うならば、僕は今もなお青春、恐らく七十になっても青春ではないかと思い、こういう内省というものは決して気持のいいものではない。気負って言えば、文学の精神は永遠に青春であるべきものだ、と力みかえってみたくなるが、文学文学と念仏のように唸ったところで我が身の愚かさが帳消しになるものでもない。生れて三十七年、のんべんだらりとどこにも区切りが見当らぬとは、ひどく悲しい。生れて七十年、どこにも区切りが見当らぬ、となっては、これは又助からぬ気持であろう。」安吾は37歳でこの『青春論』を書いたのですな。僕はまだ70歳にはなっていないが、50の半ばを過ぎ、助からぬ気持ちであるのは、まあ、どうしようもない(笑)。
ああ、だいたい酔っているな。こういうことを書いてしまったりするのは、酔っている証拠なんだが、実際酔っているのでこれまたどうしようもない(笑)。もう一度書いておこう「青年よ、森羅万象に多情多恨なれ。」(笑)。
ちなみに我が家で青年といえば、長男と次男である。親に言えぬ後悔も多恨も様々あるにちがいないが、頑張ってほしい。僕にも誰にも言えない後悔も多恨もあった。今もある。だから僕も頑張る。そう、自分につぶやいてみるしかない。むふふふ。それしかない。