現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

終日、マルバルコウソウを抜くことと石垣りんの「雪崩のとき」


少し、黄色く色づいてきている田んぼも写っていますね。
うー。腰が痛い(笑)。
今日はなんだか空気が入れ替わって、秋の空気。カラッとしてましたし、風も吹いて,なんだか涼しい一日でした。それで、というか、昨日の続きで大豆の圃場のマルバルコウソウを抜く。朝飯前と午前中と午後と、つまり終日、大豆の圃場にはいつくばって草を抜きました。今日は母も手伝ってくれましたし、長男も午後からは手伝ってくれて、なんとか3反分抜くことができました。おかげで、しかし、腰が痛ーい。ひさしぶりにロキソニンの染みた絆創膏を貼って寝るか。


昨日も紹介したけど、高橋源一郎と読む「戦争の向こう側」伊藤比呂美石垣りんの詩を三つ朗読しています。「雪崩のとき」 「家」 「崖」これが三つともいいんですけど、どれか一つだけ紹介したいと思って。ちょっと悩んでこれにしました。


     雪崩のとき


    人は
    その時が来たのだ、という

    雪崩がおこるのは
    雪崩の季節がきたため、と。

    武装を捨てた頃の
    あの永世(えいせい)の誓いや心の平静
    世界の国々の権力や争いをそとにした
    つつましい民族の冬ごもりは
    色々な不自由があっても
    またよいものであった。

    平和
    永遠の平和
    平和一色の銀世界
    そうだ、平和という言葉が
    この狭くなった日本の国土に
    粉雪のように舞い
    どっさり降り積もっていた。

    私は破れた靴下を繕(つくろ)い
    編物などしながら時々手を休め
    外を眺めたものだ
    そして ほっ、 とする
    ここにはもう爆弾の炸裂(さくれつ)も火の色もない
    世界の覇(は)を競う国に住むより
    このほうが私の生きかたに合っている
    と考えたりした。

    それも過ぎてみれば束の間で
    まだととのえた焚木(たきぎ)もきれぬまに
    人はざわめき出し
    その時が来た、という
    季節にはさからえないのだ、と。

    雪はとうに降りやんでしまった、
    降り積もった雪の下には
    もうちいさく 野心や、 いつわりや
    欲望の芽がかくされていて
    “すべてがそうなってきたのだから
    仕方がない” というひとつの言葉が
    遠い嶺(みね)のあたりでころげ出すと
    もう他の雪をさそって
    しかたがない、しかたがない
    しかたがない
    と、落ちてくる。
 
    ああ あの雪崩、
    あの言葉の
    だんだん勢(いきお)いづき
    次第に拡がってくるのが
    それが近づいてくるのが

    私にはきこえる
    私にはきこえる。

               (1951年1月)
ラジオのトークでも話してましたが、戦後まだ5年ほどで、変わってきてしまっていることを石垣りんは感じていたんですね。朝鮮戦争の頃になりますね。


今夜は旧暦の文月の七日。七夕です。はい。細目の月も天の川もなんだかぼんやり感じられます。