台風がつれてきた南の暑い空気のために今日はまた猛暑に逆戻り。
午前中はトラクタに付けっぱなしになっていたシーダーを掃除してはずしたり、大豆の中耕培土をしたカルチを水洗いしてはずしたり、車庫の掃除と整理をしたり。
午後は小麦を刈ったあとそのままになっていたコンバインの掃除。今年は大麦のあと小麦を刈ったので、大麦を刈取ったあとにコンバインの掃除をしたので、なんとなくコンバインの掃除をした気になっていたが、実は小麦を刈ったあとの掃除をしなくてはいけなかったのだ。
今回もなれぬ新しいコンバインの掃除なので、取扱説明書を見ながらの掃除なので、日没になっても全部終えられず、そのまま明日に持ち越しになりました。ま、雨の心配はなさそうなので安心ですが。
どうも今月末から稲刈りがはじまりそうな気配なので、準備もはじめなくてはいけません。
夜、池田敏春監督『鍵』(1997)をAmazonプライムビデオで観る。主演は川島なお美と榎本明、それから大沢樹生も。
谷崎潤一郎の『鍵』は海外の作品も含めると六回も映画やドラマになっているそうです。なるほどなぁ。だいたい僕のこれまでの印象では文豪の文学作品の映画化は成功しないという印象ですが、この池田敏春監督の『鍵』も、谷崎の圧倒的は文章とそれによって喚起される読者の脳内イメージを超えるものではないですし、それはもう無理としかいいようがないですね。
だいたい『鍵』は夫婦でお互いの日記を盗み読みつつ自分の日記を綴っていく、というなかなか倒錯した構成で、夫婦のお互いの心が掴みきれない葛藤や駆け引きみたいなことが、エロスとともに進行していくわけです。夫婦でお互い知らんぷりしながら半分交換日記をしているようなものなのですが、よくまあこんなことを考えましたな。これだけでもおもしろそうな気がしますよね(笑)、これを映像化してもなかなか谷崎の文章にはかなわないという気がします。
ま、原作を読んだのは30年以上前ですから細かいところは当然忘れてしまっていますが、映画はストーリーも設定も原作とはちょっと違っていました。ま、川島なお美の裸体は美しく、エロス漂う映画ではあります。うん、それでいいんだろうな。だいたいどの映画も「芸術かワイセツか」みたいなキャッチが使われているみたいだし。でも最初に映画化された市川崑監督の『鍵』が中村鴈治郎、京マチ子、仲代達矢、叶順子で、やはり谷崎のあの時代のムードを醸し出してそうな気がします。ええ、観ていませんが(笑)。
『鍵』1959年 監督:市川崑
『鍵』1974年 監督:神代辰巳
『鍵』1983年 監督:木俣堯喬
『鍵』1984年 監督:ティント・ブラス
『鍵』1997年 監督:木俣堯喬
『鍵』1997年 監督:池田敏春
ヨシタケシンスケ『思わず考えちゃう』(新潮社)読了。おもしろかったです。ヨシタケシンスケって知らなくて初めて読みましたが、絵本やスケッチ集やエッセイなどをいくつも書いておられるんですね。この本は「スケッチ解説エッセイ」ということらしいです。おもしろくて思いのほかたくさん付箋を貼ってしまいました。
例えば。
「この世はすべてねむくなるまで」
毎日ぐじぐじぐじぐじ考えて、ねむくなってきて、ああ、もうねむい、おしまい、って感じです。/何かもう世の中いろいろあるけど、結局、ねむってしまえば、一回終わる。/だからどんなことも、所詮は、もうねむくなるまでの話なんじゃないかって思えば、ちょっとだけ楽になる。一晩寝ると、だいぶ変わりますからね。なにもかもがね。/だから結局、この世はすべてねむくなるまでの空ぶかしのようなものなんだろうなって。
こんなこと書かれちゃうと、やっぱり落語聴きながらねむるのが一番の幸せのような気がしてきますもんね(笑)。
ムハのリトグラフの絵葉書が届く。美しいですね。プラハでムハのリトグラフは何枚か観ましたが、どれもよかったです。デザイナー的な感じの人ですね。