現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

ちびちび飲んでスポーツ観戦と高村光太郎の「牛」

正月三が日は毎年、弟の家族が帰省してきたり、また僕も奥さんの実家へ挨拶に行ったりして、なんだかんだでおいしいものをいただいて飲んだくれたり、箱根駅伝を長々とウダウダ観ることが多かったが、今年はどこにも行かず、誰も訪れずという正月で、ちびちび飲んで、テレビでスポーツ観戦して、早々に蒲団に入って眠る、という正月でした。
落語の「住吉駕籠」に出てくる「海老の鬼殼焼き 卵のまき焼き イカの鹿子焼き 焼き焼き焼き・・・」というフレーズが好きです(笑)。

2日(土)
 午前中は箱根駅伝など。
 そのあと午後はラグビーの大学選手権の準決勝を観る。帝京と早稲田は早稲田が勝ち、そのあと天理と明治は、天理が勝った。天理大学は関西リーグの覇者だけれど、明治の選手と比べるとぱっと見、全体として小さい。それでトンガからの留学生が何人かいる。僕のような素人が見ててもすぐわかるけれど、個人の能力としては明治の選手の方がいいんだな。それはボールを持ってステップを切りながら走る姿を見ればよくわかる。天理には滋賀県の高校の選手が二人出ていたこともあるし、それに夏だったかコロナのクラスターが出て、休まざるを得なかったこともあったし。もう俄然、天理を応援したくなりました。で、結果は 15-41 で、天理が勝ちました。いやぁ、スバラシイゲームでした。フィフィタ選手はもう抜群にすばらしかったけれど、みんなが身体張ってディフェンスしてましたな。スクラムでも小さくまとまって押し勝ってました。明治が負けると思ってた人は少なかったのでは?うーむ。でも決勝の早稲田は強そうです。
 ま、判官贔屓ということになるのだが。


3日(日)
 雨が降ったり止んだり。
 午前中は箱根駅伝をラジオで聴きながら、事務仕事。
 お昼は箱根駅伝をテレビで観る。うーむ。創価大学のアンカーの最後の最後の苦しそうな走りにハラハラドキドキしてしまった。10区のアンカーが最後にブレーキになってしまいました。僕と次女は「あらまー、なんと、かわいそうな。」と話していたら、奥さんが「勝負やから。」とおっしゃる。ま、その通りで、彼の後ろでタスキを受け取って3分の差があったのに、あきらめずに最初から走りに走った駒澤大学の10区の快調な選手がいたわけです。勝負ですわな。
 創価大のアンカーは今夜は泣いてるかもしれないけれど、あーた、人生はこれからもまだまだ続くので、これまで通り頑張り続けていけば、なんの問題もない、ということはオジジになりかけている僕にははっきりわかるんだけれど、ま、若い彼は今晩は泣いてるかも。
 その後は高校ラグビー準々決勝を観る。東海大大阪仰星と東福岡のゲームを観る。21-21の引分の熱戦で。すばらしいゲームでした。ま、両校とも優勝候補の強豪チームですけれど。抽選で東福岡が準決勝にすすむことになりましたが、いやー、走れる選手がそろってますなぁ。なるほどなぁ。


 三日付の中日新聞のコラムに、高村光太郎の「牛」の一部が紹介されていた。2021年は丑年ですしね。このブログでも何度か書いたかもしれないが、僕は高校生のある時期、毎朝、高村光太郎萩原朔太郎か、どちらかの詩を文庫本の詩集で読んでから通学していた。
 高村光太郎は「1945年8月17日、「一億の号泣」を『朝日新聞』に発表。終戦後の同年10月、花巻郊外の稗貫郡太田村山口(現在は花巻市)に粗末な小屋を建てて移り住み、ここで7年間独居自炊の生活を送る。これは戦争中に多くの戦争協力詩を作ったことへの自省の念から出た行動であった。」(ウィキペディアから)ということがあるんですけど、この自省する実直さ、それから戦争協力詩をたくさんつくってしまう実直さ。その両方がすでにこの「牛」にはあるような気がします。



        牛         高村光太郎

     牛はのろのろと歩く
     牛は野でも山でも道でも川でも
     自分の行きたいところへは
     まっすぐに行く
     牛はただでは飛ばない、ただでは躍らない
     がちり、がちりと
     牛は砂を掘り土を掘り石をはねとばし
     やつぱり牛はのろのろと歩く
     牛は急ぐ事をしない
     牛は力一ぱいに地面を頼つて行く
     自分を載せている自然の力を信じきつて行く
     ひと足、ひと足、牛は自分の道を味はつて行く
     ふみ出す足は必然だ
     うはの空の事ではない
     是でも非でも
     出さないではいられない足を出す
     牛だ
     出したが最後
     牛は後へはかへらない
     足が地面へめり込んでもかへらない
     そしてやつぱり牛はのろのろと歩く

     牛はがむしやらではない
     けれどもかなりがむしやらだ
     邪魔なものは二本の角にひつかける
     牛は非道をしない
     牛はただ為たい事をする
     自然に為たくなる事をする
     牛は判断をしない
     けれども牛は正直だ
     牛は為たくなつて為た事に後悔をしない
     牛の為た事は牛の自信を強くする
     それでもやつぱり牛はのろのろと歩く
     何処までも歩く
     自然を信じ切つて
     自然に身を任して
     がちり、がちりと自然につつ込み喰ひ込んで
     遅れても、先になつても
     自分の道を自分で行く
     雲にものらない
     雨をも呼ばない
     水の上をも泳がない
     堅ひ大地に蹄をつけて
     牛は平凡な大地を行く
     やくざな架空の地面にだまされない
     ひとをうらやましいとも思はない
     牛は自分の孤独をちやんと知つている
     牛は食べたものを又食べながら
     じつと淋しさをふんごたへ
     さらに深く、さらに大きい孤独の中にはいつて行く
     牛はもうと啼いて
     その時自然によびかける
     自然はやつぱりもうとこたへる
     牛はそれにあやされる
     そしてやつぱり牛はのろのろと歩く

     牛は馬鹿に大まかで、かなり無器用だ
     思ひ立つてもやるまでが大変だ
     やりはじめてもきびきびとは行かない
     けれども牛は馬鹿に敏感だ
     三里さきのけだものの声をききわける
     最善最美を直覚する
     未来を明らかに予感する
     見よ
     牛の眼は叡智にかがやく
     その眼は自然の形と魂とを一緒に見ぬく
     形のおもちやを喜ばない
     魂の影に魅せられない
     うるほひのあるやさしい牛の眼
     まつ毛の長い黒眼がちの牛の眼
     永遠を日常によび生かす牛の眼
     牛の眼は聖者の眼だ
     牛は自然をその通りにじつと見る
     見つめる
     きよろきよろときよろつかない
     眼に角も立てない
     牛が自然を見る事は牛が自分を見る事だ
     外を見ると一緒に内が見え
     内を見ると一緒に外が見える
     これは牛にとつての努力じやない
     牛にとつての当然だ
     そしてやつぱり牛はのろのろと歩く

     牛は随分強情だ
     けれどもむやみとは争はない
     争はなければならない時しか争はない
     ふだんはすべてをただ聞いている
     そして自分の仕事をしている
     生命をくだいて力を出す
     牛の力は強い
     しかし牛の力は潜力だ
     弾機ではない
     ねじだ
     坂に車を引き上げるねじの力だ
     牛が邪魔者をつつかけてはねとばす時は
     きれ離れのいい手際だが
     牛の力はねばりつこい
     邪悪な闘牛者の卑劣な刃にかかる時でも
     十本二十本の槍を総身に立てられて
     よろけながらもつつかける
     つつかける
     牛の力はかうも悲壮だ
     牛の力はかうも偉大だ
     それでもやつぱり牛はのろのろと歩く
     何処までも歩く
     歩きながら草を食ふ
     大地から生えている草を食ふ
     そして大きな体を肥す
     利口でやさしい眼と
     なつこい舌と
     かたい爪と
     厳粛な二本の角と
     愛情に満ちた啼声と
     すばらしい筋肉と
     正直な涎を持つた大きな牛
     牛はのろのろと歩く
     牛は大地をふみしめて歩く
     牛は平凡な大地を歩く


          (1913.12 高村光太郎作 )

 読みにくいのは、「弾機」の「ばね」 「闘牛者」の「トレアドル」あたりか。
 久しぶりに読み返してみましたが、やっぱりいいなぁ。すばらしい詩ですわ。