現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

「こなし」と吉野弘の「挨拶」

17日(金)
 朝の田回りのあと「こなし」お昼前に長男と交代。
 午後は農協で通帳記帳や事務仕事と書類提出など。それから畦畔の草刈りに。日没まで。
 長男は「こなし」のあと、トラクタのアタッチメントをロータリーからドライブハローに付け替えて「尻踏み」に。



↑今日も日没まで草刈り。


 送られてきた(と云ってもネットで買ったのだが)、山本博史、阿部淳也、館野廣幸、牧下圭貴、渡邉吉樹『いま、日本の米に何が起きているのか』(岩波ブックレット)をぺらぺら眺める。館野廣幸さんの「有機稲作という新な可能性」をおもしろく読みました。2008年に出たブックレットです。ちょっと前ですね。うん?16年前?じゃ、ちょうど僕が無農薬有機栽培で米作りを始めた頃です。あれ?ひょっとするとその頃読んでいるかも。というかいちいち同じようなことを考えていたんだな、って読んでいて思ったので、影響を受けていたのかも。農業の規模拡大、大型機械化とは違う方向を考えていましたし。ただ自然と規模は拡大し、それなりに機械も大型化してきていますが。自分で作ったお米の値段を自分で決める、とか、自分の作った米を直接消費者に届けて食べてもらう、とか、生産者が見える米、とか、要するに農協に出荷して、誰が育てた米なのかわからなくなって、値段も農協に決められて、農協ブランドで売ってもらうのではなくて、わずかな栽培面積ではあるけれど、自分なりの工夫で育てたおいしいお米を、自分のブランドで売りたい、というようなことを考えていたんだなぁ。今年で私の米作りも20年ほどになるのだが、あの頃考えていたことは、どれくらい実現しているのだろう。

 そんなこんなで、いささかヘソが曲っているのか、相変わらず苦労はしていて、肉体労働なので20年経つと身体的にはどんどんキツクなってきているのは感じます。
 それでも農業を始めて「米作り、飯になるまで水加減」という格言は日々身にしみますし、「手を忘るな」という開高健に教えてもらった言葉も百姓仕事をしながら、ときどきつぶやいてみます。半分はやせ我慢ですが。
 百姓は春と秋の季節がとても忙しくなるのですが、秋の収穫の季節はシンドイですが、登熟してきた稲を順番にどんどん刈っていけばいいわけです。刈って乾燥して籾擦りして選別して出荷・販売。これを繰り返すというか、登熟してきた順番にやっていけばいいので、肉体疲労は続きますが、考えてみれば楽でもあります。ですが、春は順番通りにはいかないというか、秋に順番通りにいくように、栽培する品種や、段取りを考えていかねばなりません。田植えした次の日にまた種落し(播種)をしたり、代かきをしたり、水加減をみたり、温湯消毒したり、苗代に並べたり、いろいろなことが同時進行ですすみますから、慌ただしいです、気分的に。本当はゆっくりやればいいのですが、百姓は仕事を隠せないので、ご近所の仕事も見えてきますし、比べて焦ったりすることもあります。

 昨夜そんなこんなで、肉体疲労でままならない暮らしをして「パチンコをする手を笑うな」と詩に書いたのは誰だったか、と思ったのですが、吉野弘だったかな?と思ってネット検索してみましたが、ヒットしません。
 で、本棚から吉野弘の詩集を出してきてぺらぺらしてましたら、すぐにわかりました(笑)。第一詩集『消息』にありました。



     挨拶       吉野弘

   同じ職場に十年一緒の同僚。
   これから先 三十年
   一緒にいるだろう同僚。

   にがいパンを購うために
   ひとつところに集ってきた
   せわしく淋しい蟻たちのような。

   いつも
   視線をまじえない お早う。
   いつも
   足早に追い越してゆく さよなら。

   そうして 時に
   こらえきれない吐息のような
   挨拶

      なにか面白いことは
      ありませんか
      面白いことは

   誰も苦しみをかくしている。
   誰も互いの苦しみに手を触れようとせず
   誰も互いの苦しみに手を貸そうとしない。

   そうして 時に
   苦しみが寄り合おうとする。

      なにか
      なにか面白いことは
      ありませんか

   面白い話が尽きて
   一人去り
   二人去り
   最後に 話し手だけが黙って
   ストーブに残っていたりする

   労働組合の総会で議長をやったとき
   発言の少いのに腹を立てて みんなを
   一層黙らせたことがあった。

   あの時も淋しかった。言葉不足な苦しみたちが黙っていたのだ。

   ひとの前では言えないことで頭がいっぱいだったのだ。

   ―そいつをなんとか話し合おう―
   と若い議長がいきりたったのだ あのとき。

   不器用な苦しみたちは
   いつも黙っている。
   でなければ しゃべっている。
   なんとか自分で笑おうとしている。
   ひとを笑わそうとしている。
   そうして
   どこにも笑いはない。
   そうして
      なにか面白いことは
      ありませんか

   パチンコに走る指たちを責めるな。
   麻雀を囲む膝たちを責めるな。
   水のない多忙な苦役の谷間に
   われを忘れようとする苦しみたちをも
   責めるな。

   これら 苦しみたちの洩らす
   吐息のような挨拶を責めるな。

   それら
   どこからともなく洩れてくる
   挨拶
      なにか面白いことは
      ありませんか
      なにか


 ああ、なるほど。思っていた詩とはちょっと違ったけれど、いい詩ですな。泣きそうになる。散文詩風の、ちょっと理屈っぽい詩なので、好き嫌いはあるでしょう。「パチンコをする手を笑うな」じゃなくて、「パチンコに走る指たちを責めるな」でした(笑)。検索でヒットしないはずです。
 ああ、しかし。「なんかおもしろいことない?」とか「休みの日にはなにしてる?」とか、挨拶としていた自分が確かにいたなぁ。パチンコや競馬、宝くじ、麻雀、ギャンブルにはまる人を知らないわけではないが、労働と疲労、労働と暮らし、労働と労働組合、労働と助け合い、労働と仲間意識、労働と喜び。働かざるもの食うべからず、とも言われる世の中で、働いて、疲労して、ビールを飲んで、老いを感じて、自分の来し方を振り返り、またそういう目で家族や世の中を眺めてみる。生命とはなにか、みたいなことまで労働と肉体疲労は考えさせてくれるのでありました(笑)。
 と、僕は厚顔なので、ビールの酔いのままキーボードを打ち続けているけれど、人前では言えないこともありますわね。淋しくって苦しくって黙ってしまうこともありますわな。でなければアホなことを書いて人を笑わそうとしたり。たわいないことにして、笑ってもらいたいと思ったり。じっと手をみたり(笑)。

 ああ、書き忘れているけれど、湛水直播、その後、毎日のように田んぼを観に行っているのだが・・・。ええ、いや、まったく芽が出てきていないわけではないのですが・・・。あんまり芽が出てきていない。二、三日前に農協のUさんに話してたら、普及所の人も観に来てくださったらしいが、鴨の足跡もたくさんありますねぇ、ということでした。それはカラスだと思いますけど。でも鴨もやってきていたのかも。張り切って数年ぶりの直播きやってみたんだけどなぁ。世の中、ままならぬこともありますな。え?ままならぬことばかりですか?そうかもしれません(笑)。
 なにはともあれ、がんばるぜ。今夜もビールも飲めたしね。ちくしょー、なんでビールだけはいつもうまいんだ(笑)。