現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

うちの大豆が地元の豆腐になること『ぼくの大切なともだち』を観るこ

ぼくの大切なともだち

今日も寒い!朝から雪で、起きたときには積雪5cmほど。三時過ぎまで雪やみぞれが降り続く。
明日の大豆の検査に向けて農協へ大豆を持っていこうと思うのだが、持っていけず。3時過ぎにすこし晴れたので、慌てて軽トラに大豆を積み込んで農協へ持っていく。
今回の大豆は地元の豆腐屋さんが地元の大豆で豆腐を作って地元の人に食べてもらいたいとうちの大豆も買ってくださるそうです。ありがたいこと。どんな豆腐になるのか、食べてみたくなりますよね。商売上手な豆腐屋さんですよね。


先日Amazonから届いたパトリス・ルコント監督『ぼくの大切なともだち』を観る。十河進氏の紹介文を読んでいたらたまらなく観たくなり、レンタル屋に聞いたけど2006年のフランス映画。検索してもらったけど、「まだない」と言われてAmazonで注文した。コメディ映画なんでしょうね、たぶん。あまり笑えないけど。
友達とかツレとか友情とか、わりと微妙なもので、意識したり言葉にしたりすると、返ってぎこちないような、照れ臭いようなところがありますね。そこが恋愛とは違うところ。恋愛は告白しなくてはいけない、言葉にしなくてはいけない、ある種意識した行動に出なくてはいけない。


このDVDを観て思い出したのは佐藤春夫の文章。もともとは丸谷才一文章読本』のなかに名文として全文が載っていた。読んだのは学生時代だけど、富山房百科文庫に佐藤春夫『退屈読本』もはいっているのを大学の二年生の時に本屋で見つけて買った。ちゃんと今でも本棚にありました。長い引用ですけど、「好き友」はこんな話。

 私の交友は誰々かとお尋ねになるのですか。貴問は私を怏々とさせます。私には友達といふものがないからです。それは私の孤独な、人と和しがたい性格から来てゐるのでせう。どうもさうらしい。
 考へて見ると、私には少年時代の昔から友達といふべき者はなかつたやうな気がします。私が十二歳の時、私はちやうど、今日貴社から与へられたと全く同じ質問を、小学校の先生から与へられたことがありました。その時も私は今日と同じやうな不愉快を感じました。
 その時先生の質問といふのは、生徒たちの学校外での生活を知るために、各の生徒たちが持ってゐる友達を五六人数へ上げよ、といふのであつた。雨の日の体操の時間で、雨天体操場などのあるべき筈もない田舎の小学校では時をり、そんな機会にそんな事をする時間があつたのです。先生が紙をくばつてくれると、生徒はそれへ返答するのです。人に見られないやうにと肘でしつかりと囲をして、それぞれに小さな頭と胸とを働かせながら書くのです。割合に自由な時間なので、いつもこんな時には、私は楽しかつたものです。一番好きな歴史上の人物は誰だとか、或は誰でも教壇へ出て面白い話をしてみよとか、つまり雨の体操時間といふのは遊びの時間だつた。それだのに、その日は何だか試験の日のやうに緊張した感じがあつた。私はといふと、試験ならば即座に答へてしまへるものを、この日のこの質問には本当に悩まされた。答へようにも私にはひとりも友達らしいものはなかつたからである。
 しかし、ひとりも友達がなかつたと言つて、私は人に馬鹿にされて相手になつて貰へなかつたのではない。却つて私は人に畏れられてゐたのである。私は大人びた子供で学科も不出来ではなかつたし、私の家は医者だといふので田舎町の純朴な人たちは尊敬してゐてくれた。さういふわけで、小さな我々の仲間までが、私をへんに畏敬する風があつた。それに私は、いつもひとりで遊んでゐる無口な子供ではあつたし、誰も用事の時の外には、気軽に口を利いてもくれなかつたのである。それを、私はふだんは大して不幸にも思つたのではない。しかし、今日かうして、お前の友達は誰々だと問はれると、直ぐに答へ得る名のないのを淋しく思つたのです。その上、私は先生に向つてきつぱりと友達はひとりもないと書くことは出来なかつたのです。どうしてだか知りません。いろいろと考へた末で私は、教室に於ける自分の座席のぐるり四五人の子供の名を順々に書き並べたのです。何故かといふのに、その子供たちが、さういふ位置に置かれた自然の関係として、自然と、最も多く私と口を利く機会が多かつたからでした。
 その時間が過ぎてしまつて、自由な時間が来た時、子供たちは、今のさつきの先生の質問をさも重大な事件のやうに話し合つてゐた。彼等は皆、人々に、俺はお前のことを書いたといふやうなことを言ひ合つてゐた。しかし、私に向つてそんなことを言ひかけた者はひとりもなかつた。すると、いつものやうに黙つてゐる私のところへ来て、ひとりの子供が話しかけた ―――
「あんた。誰書いたんな?」
 その子は快活な口調で言つた。それは教室で私のすぐうしろに居た子供であつた。きさくな性質で、気むづかしげな私に対しても常から最も多く口を利いてゐた。彼に対して私は答へた ―――
「おれはあんたの名を書いたんぢや」
 その答へとともに、彼のはしやいでゐた顔は一刹那にがらりと変化した。しばらく無言だつた彼は、やつと私に言つた。―――
「こらへとおくれよ。なう、わあきやあんたをわすれたあつた。わあきやあ、ぎやうさんつれがあるさか」
 二十年を経た今日、彼のその言葉を、私はそつくりとその田舎訛のままで思ひ出す。さうして私は彼のこの正直な一言に、今も無限の友情を見出すのです。ひよつとすると、これが私のうけた第一の友情ではないかとさへ思はれるくらゐです。
 貴問に対して私は、仮に三四の名を挙げることも出来るでせう。しかし、その人たちが数へ上げた名のなかには私が無かつた時に、彼等は私に対して、果たして、
「恕せ、友よ、予は君を失念しゐたり。予は多くの友を持つが故に」
 と、さうはつきりと私に言つてくれるだらうか。どうも覚束ないやうな気がするのです。
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 或る時、私は、或る雑誌社から『吾が交友録』といふ題で一文を求められた時、それに答へようと思つて以上のやうな文を書いた。しかし、あまりにひねくれた言ひ分だと人が思ひはしないかと思つて、書いたままでそれをまるめて、屑籠のなかへ入れてしまつた。

5分ほどの佐藤春夫の文章を読んでからだと、映画のストーリーは90分少々の長さにしては単純すぎると思えるのですが、妙に不安にさせる言葉ではあります、「親友は誰?」なんて質問のセリフは。現実の世界では、まあ、ほとんどないと思いますけど。
まあ、でも、友達選びなさいとかつきあう人間を考えなさいとか、そういうセリフもありそうで現実の世界ではほとんどないような気もするんだけど、・・・、いや、あるか。あるな。あるわ。
サン=テグジュペリに”本当の贅沢は人間関係である”というような言葉があるんだ」と、昔、聞いたことがある。好きだとか嫌いだとか損だ得とか腐ったリンゴやミカンは箱から出すのだというような比喩とか、人間関係を選択するというレベルではなくて、人と人とが関わりあう、関係を持つ、出会う、影響しあう、そういうことがすでに贅沢で豊かなことだと、サン=テグジュペリは夜間飛行の寒くて暗いコックピットで考えていたんじゃないのかなぁ、と定年間近のその人は燗酒をちびりちびりとやりながら語った。
うまく書けませんけど、農業をやりはじめてつくづく感じさせられるのは、自然の豊かさと精緻さ。でも仕事や地域や家族も含めて人間関係こそが生きていくことのダイナミズムみなたいなものですわな。
しかしこの映画タイトルがもひとつだなぁ。”mon meilleur ami”って「私の親友」って意味だろうけど。まあ、コメディ映画ということだからこの軽さがいいのかな。