現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

草刈りと中打ちとリーマン予想

大豆中打ちと耕耘機

1日(日)
晴れときどき曇り。八月になりました。今日も暑かったです。
午前中は地域の農事組合の役員で、用水池や用水ポンプ小屋のまわりの草刈り、それから田んぼ脇のバイパス道路の法面がすごく茂ってきているので、そこも草刈りをする。暑かったが、お茶やアクエリアスをいただいてギュンギュンと刈りまくる。
午後は昼寝と出穂し始めた田んぼの一枚に糸を張りました。スズメ除けです。そんなにスズメがいるのか?と笑われるかもしれませんが、隣は堤防の薮ですし、まわりは転作で大豆畑になっていますし、そこの田んぼだけにイネの穂が出ていますから狙われるのです。カラスでもスズメでもそうですが、一度旨い思いをして狙いをつけると、そこから離れませんからね。とりあえず糸を張りました。どれくらいの効果があるのか、わかりませんが、まあ、何事も経験だと思って汗を流しました。


2日(月)
朝飯前に大豆の畑の中打ち作業の続き。土曜日の朝の雨で、まだ土が少し濡れていて、足の裏に土がつくこともありましたが、なんとかやり終える。
その後書類仕事を少しして、昼寝の時間をさいて、今度次男の野球チームが大鳴門橋学童軟式野球大会に出るので、市に激励金の申請にいってくる。なんとか受け付けてもらえそうでありがたい。



NHKオンデマンドの夏休み限定キャンペーンで、「魔性の難問 リーマン予想・天才たちの闘い」という2009年放送の番組を見る。
素数の話です。天才数学者達がたくさん登場するのですが、うーむ、僕には彼らの天才ぶりは充分にわからないのですが、要するに、意味のない数字の並びだと思われていた素数の並びですが、オイラーはその無秩序な数字の並びが、宇宙で最も美しい形、円を作り上げることを発見するんですね。オイラー素数が単なる気まぐれに並んでいる数字ではなくて、宇宙の法則とつながっている可能性を初めて実証したのでした。リーマンはゼータ関数(どういう関数かという説明がありますが、ここでそれを僕がすることは無理です。要するに素数だけを素材にしたオイラーの数式を少し変えたものなのですが。)を目に見える立体的なグラフにすると、グラフの高さ0になる0点はどこに現れるのか考えてみたのです。無秩序な素数を素材にした関数なので、0点も無秩序に出てくるのかと考えられていたのですが、4つほど計算してみると、ところがなんとそれがすべてぴたりと一直線上に現れたのです。無秩序に現れる素数を、素数で作られたゼータ関数の0点はすべて規則正しく一直線上に並んでいる。もしかしたらまだ見つかっていない他の0点もすべて同じ一直線上に並んでいるのではないか。このリーマンの直感こそが「ゼータ関数の非自明な0点はすべて一直線上にあるはずだ」というリーマン予想(1859年)なんだとか。
もしそれが本当なら素数には理想的、完璧な調和が存在することになりはしまいか。素数の並びに数学的な裏付けがあるはずということ。
リーマン予想の素晴らしいところは、無秩序だと思われていた素数の並びに意味はあるか?という問いをすべての0点は一直線上にあるか?という数学的な問題に焼き直したことだそうです。なるほど。うーむ。なるほど。としか言いようがないですが。いわれてみれば半分くらいわかったような気にさせられます。
さらに数学者ヒュー・モンゴメリーと物理学者フリーマン・ダイソンが、ゼータ関数上の零点の分布の数式が、原子核のエネルギー間隔を表す式と一致する事を示し、素数と核物理現象との関連性が示唆されて以降、この素数の問題が万物の理論 創造主による宇宙の設計図などと言われていたりするようです。
ふー。なんで僕がリーマン予想の説明をしているのか、わかりませんが、刺激を受けたんですな。無意味な刺激なんですが。刺激を受けたわけです。
藤原正彦のエッセイや小川洋子の『博士の愛した数式』で素数について出てきたので(結城浩数学ガール』にも出てきたか)、ははん、ほほん、と思っていたのですが、おもしろいものですね。刺激的です。
万物の理論ですか。
今日も八月の青空がひろがって太陽がぎらぎらしています。太陽が傾いてすこし日射が柔らかくなったらまた大豆の中打ち作業に出ます。


というわけで、日没まで大豆の中打ち。大汗をかく。ビールが旨い。


今朝の日本農業新聞養老孟司氏のコラムが載っていた。以下その要約。
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何かについて書くときに、一番困ることは、言葉と実際の違いである。農林水産業のように、モノを相手にする話題では、特にそれが著しい。
実態が不明では話にならないし、だからといって、具体的な詳細にはまりこんだら、話が局所的になってしまい、聞いてもらえない、読んでもらえない、ということになる。
以前は私は解剖学をやっており、今は虫を採っている。どちらも実地ではあるが、お金にはならない。つまり経済の言葉では語れない。ある意味でこれが一次産業に似ているのは、お分かりであろう。もちろんお金のことを考えなければ、社会では生きていけないから、どこかでそれは考える。考えるけれども、それが本来の仕事ではない。
経済の言葉とは、経済について語る言葉だけではない。実はお金であろう。その意味では、お金も言葉も似たものである。どちらもある程度実際に即しているが、実際ではない。実際に付属したものだが、今ではその付録が主役みたいな顔をしている。
解剖にしても、虫採りにしても、、語ること、つまり言葉にすることは出来る。しかしそれで実際の事情が伝わるとは、私は思っていない。むしろ伝わらないほうが多い。だから医学では解剖は必ず実習である。世界中どこでも、それは同じである。
そういう仕事をしてきたせいか、あるいは年のせいか、最近は言葉が嫌いで、実地が好きである。原稿を書きながらそう思うのだから、どうしようもない。その思いからすると、現代は言葉が多すぎる。お金も同じらしい。過剰流動性などという言葉ができた。
お金も言葉によく似ていて、もうかることと本来の仕事は別である。売れる本がいい本ではない。同様に、議論が盛んだから、物事がうまくいくわけではあるまい。むしろ逆で、議論つまり言葉が多いのは、実地がうまくいっていない証拠であろう。
こういうことは昔からわかりきったことである。だから昔の人は「悔しかったらやってみな」と若者によく言った。今はそれをほとんど聞かない。マニュアルが出来て、「誰でもできるはず」のことばかりになった。やってみなければわからないこと、少なくともそういうものがあるということは、それでも教える必要があろう。
でも教育からそれがなくなり、「先生、説明してください」という学生が増えた。説明すればわかることと、わからないことがある。それをきちんと仕分けしないと、何がなんだかわからなくなってきてしまう。現に世間はそうなっていないだろうか。
説明責任とか透明化という言葉を聞くたびに、そう思う。
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いつものように、結論があるようなないような文章ですが、わかったような気にさせられてしまうところが、楽しいですな。