現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

秋の一日、スコップで溝と溝をつなぐ


一日秋晴れの気持ちのよい天気。
今日はあざいお市ラソンがあったりして早朝より花火が何発も上がっている。お隣の小学校のグランドでも朝早くからスポ少のチームが集まって練習試合かな。野球を楽しんでいる。
三連休の中日ですし、天気はいいし、ちとそのあたりに心はひっかかるのだが、菜の花や小麦の播種も近づいてきているし、あれこれ天気のいい時にしておかなければならない準備もあるのでありました。


昨日から父が転作で作付けする小麦の圃場の周りを、トラクタに片培土板をつけて溝を切ってくれている。水稲は少々湿気っていても大丈夫だけれど、小麦や大豆など畑物は土を乾かさなければ始まらないのだ。
畔にぶつかるところまで、トラクタで溝を切ると、トラクタの長さの分だけ、四隅に溝が切れない部分が残る。そこをスコップで溝を切って、溝をつなげるわけです。スコップでワッセワッセとやっているとすぐ疲れてきて休憩したくなります(笑)。午後はずいぶんスピードが落ちました(笑)。ま、そんなこんなで今日は終日スコップで溝切り。

でも秋晴れの素晴らしい天気でしたし、お隣の田んぼで溝切りしている農家とも畔に腰掛けて世間話をしたりしながら、気持ちよく過ごしました。
生産調整(転作)はいちおうブロックローテーションで回ってくるのですが、来年、うちはたくさんの田んぼが転作することになっています。ちょっと早め早めに準備をしていかなくてはいけません。
カエル、ミミズ、ハサミ虫、ケラ、キチキチバッタ、それからコオロギ、つながった赤トンボ、ヤスデ、ムカデ、などなど、たくさん生き物を見た一日。それからコオロギが昼間も一日鳴いていた。


今日は旧暦では9月13日。月齢は11.7だが、十三夜である。なかなか風情のある月であります。後の月ですな。豆名月、栗名月とも。あ、そういえば、今日は奥さんが栗を買ってきて茹でて出してくれましたな。栗は茹でても焼いてもいいが、生も好きです。渋皮を剥くのがちょっと大変ですが。


昨日の朝日新聞の朝刊に池澤夏樹「始まりと終わり 間違いだらけの電力選び」という文章が載っていた。以下その要約。

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野田首相が国連で「原発の安全性を世界最高水準に高める」と演説した。
まだそんなことを言っているのかとあきれかえる。日本の原発の安全性はなにも「世界最高水準」である必要はない。世界で何番目だろうがかまわない。ただ安全であればいいのだ。
安全性に自信がないから大袈裟な言いかたを持ち出してごまかす。この言い回しは、3・11以前の電力業界の姿勢をそのまま引き継ぐものだ。
首相が代わって、脱原発に対する国の方針は明らかに後退した。推進派の巻き返しなのだろう。

国際社会という場で考えるならば、我々は恐ろしく恥ずかしいことをしてしまった。事故を起こして大量の放射性物質を大気中と海水の中に放出したのだ。この事実に対して、野田氏の演説は反省の言葉として誠意が感じられるだろうか? 原発の輸出は倫理的に許されるだろうか?
世界一と言えば、日本は世界で最も地震と噴火と津波の多い国である。いくら形容句を重ねても安全な原発はあり得ない。軽い言葉に頼った結末がフクシマだったのではないか。
子犬が室内で粗相をしたら、その場へ連れて行って、鼻面を押しつけ、自分が出したものの臭いを嗅がせて頭を叩く。お仕置きをして、それはしてはいけないことだと教える。そうやって躾けないかぎり室内で犬を飼うことはできない。
我々はこの国の電力業界と経済産業省、ならびに少なからぬ数の政界人から成る原発グループの首根っこを捕まえてフクシマに連れて行き、壊れた原子炉に鼻面を押し付けて頭を叩かなければならない。
環境省は、フクシマの事故による放射性物質の除染と汚染瓦礫の処理には少なくとも一兆数千億円の費用がかかると言っている。この先では更に数兆円を要するとも言う。
「除染」というのは1999年の東海村の事故を機に一般化した言葉である。「汚染」を「除く」という意味だろうが、半減期の決まった放射性物質の汚染がどうやったら除けるのか。ただ移動させるだけの「移染」ではないのか。
専門家はこの除染にかかる費用を、福島第一原子力発電所が開設以来生み出してきた電力総量の値段の上に乗せた上で、その電力が1キロワット時あたりいくらになるのか計算していただきたい。それでも原発の電気は安いか?
問題はコストだけではない。
放射能」は不安なのだ。どこでどれだけ被曝したか自分ではわからない。将来、何かの病気にかかった時に、それはあの原発事故に由来するものではないか、どこかで被曝していて、それ故に寿命を不当に縮められたのではないかと疑う。東日本の多くの人たちがこの先そういう思いで生きてゆく。

日本の電力業界はとても不健全な育ちかたをした。
同じ時期に同じように急成長した自動車と比べてみようか。
自動車はオープン・マーケットだった。製品に対する批評と批判はいくらでもできた。毎年刊行されていた徳大寺有恒の『間違いだらけのクルマ選び』はその象徴だった。その前提として、自動車は他の消費財と同じく買い手が選べるということがあった。不人気なものは淘汰されて市場から消える。
電力はそうはいかない。地域ごとの独占で、しかも発電と送電を同じ会社がやっているのだから、チョイスの余地はまったくない。昔、沖縄に引っ越した時、これで原発の電気を使わないで済むと思った。あの島に原発がないのは市場として小さすぎるからだが。
電力とはどういうビジネスか。
供給が絶たれると困る、という点ですでに消費者は弱い立場に置かれている。それが独占企業だと、コスト計算など売る側の思うまま。経費を積み上げて一定の利益を上乗せするという、社会主義経済のような手法が通用する。その周辺に利を求める政治家が群がる。みんな自分の取り分を確保するための屁理屈を振り回している。
先日会ったドイツ人の友人はかつて原子力の研究者だったのだが、ドイツでも原発はまるで造幣局だと言われていたと話してくれた。それほど着実に利を生む。
そのドイツはフクシマの直後、速やかに脱原発を決めた。ミュンヘンからシュトゥットガルトまでの汽車の窓からメガソーラー(大規模太陽光発電所)をいくつも見た。大きな建物の屋根ごとにソーラーパネルが設置してある。スペインでは風力発電による電力が総発電量の21パーセントになったという。
どうやって日本の電力を変えるか。
簡単なことだ。次の選挙で候補者一人一人に原発に対する姿勢を聞いて投票する。官僚や産業界がどう抵抗しようが、選挙結果は動かしようがないから。

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朝日新聞の記者は、今度の選挙の時、候補者に原発に対する姿勢をちゃんと聞いて、公約とともに一覧にして載せるようにしてください。