現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

都会のビルの中で育てる野菜と小豆の検査

あ、昨日のブログは日付を間違えてしまったけれど、ま、いいか。


20日(月)
今日の日本農業新聞の一面に養老孟司先生の文章が載っていた。「ネズミと私 感覚を抑圧する文明」という文章。以下、その要約。

===================================================

大学で現役の研究者だった頃、ネズミを飼っていた。もちろん実験に使う。カゴに入れて人工飼料と水を置いておく。ネズミは好きな時に水を飲み、餌をとる。そのネズミを使って、いろいろなことを調べる。
そのうちあれこれ疑問が出てきた。こうして飼っているネズミは、本当の動物なのだろうか。
“細かいことはどうでもいい。ネズミがある決まった条件で生きている、それが本質的で大切なのだ。実験室なら条件のコントロールもできる。”そういう考え方がネズミのような実験動物を生んだ。
結局私はそういう実験動物を動物の代表だと思うことができなかった。だから、野生のネズミを調べるようになってしまった。外で生きているネズミが、実は本来のネズミじゃないのか。実験室で飼われているネズミって、あれはいったいなんなのだ。
もちろん私のような感覚は一般的ではなかった。だから、周囲に受け入れられるとは思ってなかった。でも、ともかくそれで現役時代を押し通した。おかげで研究者として成功したと思っていない。でも解剖学なら、なんとかなった。だって解剖して、何か見つかっても、あるものはあるもので、それは仕方がないからである。実験はいらない。
何の話か。実は農業のことでもある。空きビルで、電灯をつけて野菜を光合成させ、水耕で育てる。ヒトが食べて、生きていくには、それで充分かもしれないけれど、何かが違う。何が違うのか。
地面で育つと、土の中に何があるか、よくわからない。科学で言えば、条件がきちんとコントロールできない。それでは科学的に扱えない。全ての条件をできるだけコントロール可能にすること、それが結局は正しいのだ。それが近代科学の考え方である。だから作物だってそう扱われる。地面の中にすむ微生物は、とりあえず無視する。いないことにするのである。それなら土でなくて水だっていいし、合成された物質でもいい。
だが、そこで育った野菜は食べたくない。そう感じるのは、まさに感覚である。実は文明は感覚を抑圧する。感覚が鋭いのは動物、ヒトなら子供である。そういう野菜は食べたくないという感覚が消えたヒトを増やせば、有機農業もクソもない。生きられれば、それでいい。
そういう世界がどんどん進んでいるとしても、私のせいじゃないという気がする。だって感覚の問題で、感じない人は説得しようがないからである。
===================================================



相変わらず、養老先生の文章は皮肉っぽいし、世をすねていて言葉足らずを装っていらっしゃる気配、というかこれも多分聞き書きなので、文字起しの問題もあるのかも知れませんが、もひとつ読みやすいというわけではないのですが、おっしゃっていることは、よく判ります。
もうずいぶん昔ですが、東京のどこかのビルの地下で水耕栽培の野菜を栽培しはじめたというニュースのとき、人工照明の管理の行き届いた栽培だと、虫も付かないし農薬を使わなくてもいいので、大都会の真ん中で無農薬野菜が栽培できる、流通経費も少なくてすむ、とスタジオのみんなが、盛り上がっている時に、コメンテーターの一人だった北野武が「でも、おいらは、こういう野菜は、人間の食べ物として、無農薬だから安心というのとは別の次元で、何かが足りないと思うんだよね。きっと今ははっきりわからなくても、何かが足りないよ。たぶん間違いなくそうだぜ。」とコメントしていたのを覚えている。
要するに北野武は養老先生のおっしゃる “そう感じない人” ではない、ということなのだが、あの頃はテレビ局の思惑とは裏腹に、ほとんどが北野武と同じ感覚だという気がしたのだが、最近はそうでもないのかも、という気がしてきて、少し心配してきているのでありました。


今日は農協で小豆の検査の日。朝から母に促されて出荷してきました。小豆は大豆と比べても収穫までに何かと手間のいる作物なのです。京都の和菓子屋さんが検査をして合格ならば買ってくださっているのですが、検査に立ち会ってきた母は帰ってくるなり「今年もきれいな小豆ですね。」と言うてもろたと上機嫌でした。もっともどの農家もみんなきれいな小豆やったそうですが(笑)。銘店の小豆の検査官はもちろん小豆の収穫と、収穫して検査に出すまでの苦労と手間を判ってらっしゃる。百姓の婆さん殺すに刃物はいらぬ、手間暇ねぎらうだけでいい。というやつですな(笑)。


朝、犬の散歩の時、田んぼの雪の上を犬だかキツネだか歩いた足跡があった。森の中のトレッキングほどではないにしろ、これもなかなか楽しい。


21日(火)
今日は30年ぶり(?いや、もっとか?)に、古い友達が訪ねてきてくれるので、家の掃除を少ししなくてはいけない。なにはともあれ、楽しみではある。