現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

催芽することと田んぼの尻水戸の確認など


朝、浸種しておいた種籾を催芽機に入れ、水温を28℃まで上げる。


午前中は、畔塗りした田んぼの尻水戸をを止めたり、田んぼの石を拾ったりする。ときどきびっくりするような大きな石を見つけたりするのだ。
こういうことを書くのはあれだけど、父が長いこと作ってきた田んぼには、そんな石は出てこない。それは祖父なのか、父なのか、わからないけれども、毎年、ちょっとづつ、こんな風に田んぼの石を拾って出してきたからだろうと想像している。
僕が田んぼをするようになって、面積が増えたので、あちこちいろんな田んぼを貸してもらって作付けしているのですが、こうして大きな石がゴロゴロ出てくる田んぼがあったりする。機械が大きくなったので、深く耕せるようになって、底の石が出てきたのかもしれないが、あれこれ考えさせられることではある。


午後は地域の役の仕事で、水路や農道の点検に歩く。一時間半ほど歩いたし、万歩計も数字を叩き出していることと思う(笑)。22215歩でした。


今朝の中日新聞に載っていた記事。二つ。


秘密保護法  言わねばならないこと
白井聡
報道の自由という観点から見て大変危険な法律であることも確かだが、それ以上に大きな問題がある。それは、国家安全保障会議(日本版nsc)の新設や集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈の変更等と並び日本を戦争ができる国にするための政策パッケージの一環だと言うことだ。
安倍晋三首相の訴える「積極的平和主義」は、戦後の日本の平和主義も「消極的」だと否定している。戦争をしないことで安全を保つのか、することで保つのか。その点で発想の大転換が行われた。
だが、こうした方針に漠然と賛成している人に、これから中国やアジア諸国との関係がさらに悪化し、実際に武力衝突が起きる事の本当の覚悟があるとは思えない。これこそが「平和ボケ」というものだ。
僕の知る限り、こうした事態に対して、特に若い世代の関心があまりに低い。政治に深く絶望する気持ちもわかるが、多くは国家権力というものがどういうものか、深く考えたことも無いのだろう。国家は常に国民を優しく包み込んでくれるものだ、という現実離れした感覚なのではないか。
庶民がどう思おうが、国家には国家の意思があり、時に個人との決定的な対立が生じうることをわかっていない。例えば、福島や沖縄には、実際に国家の犠牲になっている人がいる。
では、本当に戦争となった場合、一体、誰が行くのか。若い人だ。そんなこともわからずに、国を戦争へ近づける動きを支持するような間抜けなことをしていると、むしられます。お金だけじゃなくて、命までもむしられる。それが嫌なら、知ろうとする努力をしなければいけない。




共に生きようとする倫理観
内山節
よりよい社会とは何かを定義するなら、それは安心感や信頼感のある社会のことなのだと思う。最も大事なのは平和であり、平和の中には戦争の可能性がないことだけではなく、生命が脅かされない社会であることも含まれる。放射能の危険性を感じながら生きる社会、環境の悪化や食品の安全性に不安を感じるような社会は、平和な社会とはいえない。
安心感のある社会とは、この社会の中にいれば誰もが生きていけるという、信頼感のある社会のことなのである。そのためには、共に生きようとする倫理観が必要なはずである。
現在の日本の社会は、この安心感や信頼感を失いつつあるように見える。倫理観のない、すさんだ社会が広がっているといってもよい。とすると倫理観とはどこから生まれるのであろうか。それは、ともに生きようとする結び合いの中から芽生えるものであって、国が教えるようなものではない。
自然とともに生きようとすれば、自然に対する倫理観も芽生えてくるだろう。家族と共に生きようとするときも、友人と共に気をとするときも、家族や友人に対する倫理観が自然に生まれていくだろう。かつては地域とともに生きようとする都市社会や農村社会があって、ここにもその地域特有の倫理観が存在していた。以前の企業にも共に生きようとする雰囲気があって、それがそれぞれの企業の倫理観を醸成していた。もっともそれは、企業人間を生み出すという負の側面ももっていたのだが。
今日の日本では、ともに生きようとする結び合いが壊れてしまっているのである。だから社会を支えているはずの様々な倫理観も消えてきて、それが信頼感や安心感のない社会を生み出している。原発被害者とともに生きようとすることより、原発再稼働に邁進する社会からは、倫理観など芽生えてくるはずもない。少し前までは普通に使われていた「弱者の立場に立って考える」という言葉さえ今では消えてしまったかのようだ。共に生きようとする倫理観がなくなってしまえば、個人の論理や組織の論理が社会を引っ掻き回し、他者への配慮を持たない自己主張が横行するようになる。そしてその態度は、国内だけではなく諸外国に対しても向けられるようになる。
およそ200年前に活躍したドイツの将軍クラウゼヴィッツは、有名な「戦争論」の中で、戦争は対外的な関係から発生するのではなく、国内的要因によって起こると述べている。国内のあり方が、戦争を必要なものにしてしまうということである。とすると、共に生きる国内社会を作ろうとしない精神からは、様々な国々と一緒に、共に生きる世界を作ろうとする精神もまた生まれてこないことになる。
私たちは、共に生きる社会を再創造しなければならないのである。今日の弱肉強食のような社会ではなく、誰もが平和な一生をとげられる安心感のある社会を作り上げなければならない。そのことが、世界との平和を希求する社会をも生み出すのである。
自然や他の人とともに生きようとする様々な営みこそが、倫理観のある社会、平和で安心感や信頼感のある社会を作る基盤なのだということを、私たちはもう一度想起する必要がある。


内山節氏の文章はいいこと書いているのに、どういうわけかいつものようにインパクトの弱い、パンチの効いていない感じになっているのだが。
若い白井聡氏の文章は、やはり「福島家沖縄には、実際に国家の犠牲になっている人がいる。」というとき、まざまざと感じさせるものがあるのだが、若い人はどうなんだろう。


秘密保護法、日豪EPAの大筋合意、TPPの交渉、原発再稼働を明記したエネルギー計画の閣議決定などなど、いろいろな立場や発想、考え方があるのはわかるが、それにしても。