現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

高野文子『ドミトリーともきんす』と「詩と科学」

tsujii_hiroaki2014-10-27

26日(日)
午前中はトラクタ二台の水洗いなど。
午後は大豆の圃場の草刈りと、夜の寄り合いの準備。
夜は寄り合い。
深夜になってから、思いの他の、けっこうな雨。


27日(月)
昨夜は結構な雨。
今日の午後は雨もちょっと降ったりして、あれでしたが、風が強くなりました。
湖西線が強風で運転が止まったり、木枯らし一号だそうです。瞬間的には20mほどの風だとか、いやはや。


午前中は、お米の精米など。午後は小麦の播種に向けてシーダーをセットしてトラクタに取り付ける。


夕方、コンビニに行ったら、ちょっと変わったビールが並んでいた。ヤッホーブルーイングの「よなよなエール」と「インドの青鬼」。うーむ。「インドの青鬼」、なかなかに苦味の強いうまいビールで驚く。これはこれは。知らなかったです。


高野文子『ドミトリーともきんす』(中央公論新社)読了。
なんだろ、漫画による自然科学関係読書案内ですね。


たいへん楽しませてもらったが、最後のところに出てきた湯川秀樹の「詩と科学」という文章。いままでに何度か読んでいるのだが、この高野文子『ドミトリーともきんす』の最後を飾るのに、ほんとうにふさわしい文章だと思いました。

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詩と科学は遠いようで近い。近いようで遠い。どうして遠いと思うのか。科学は厳しい先生のようだ。いいかげんな返事はできない。こみいった実験をたんねんにやらねばならぬ。むつかしい数学も勉強しなければならぬ。詩はやさしいおかあさんだ。どんな勝手なことをいっても、たいていは聞いて下さる。詩の世界にはどんな美しい花でもある。どんなにおいしい果物でもある。
 しかしなんだか近いようにも思われる。どうしてだろうか。出発点が同じだからだ。どちらも自然を見ること、聞くことからはじまる。薔薇の花の香りをかぎ、その美しさをたたえる気持と、花の形状をしらべようとする気持の間には、大きな隔たりはない。しかし、薔薇の詩をつくるのと顕微鏡を持ち出すのとでは、もう方向がちがっている。科学はどんどん進歩して、たくさんの専門にわかれてしまった。いろんな器械がごちゃごちゃに並んでいる実験室、わけの分らぬ数式がどこまでもつづく書物、もうそこには詩の影も形も見えない。科学者とはつまり詩を忘れた人である。詩を失った人である。
 そんな一度失った詩は、もはや科学の世界にはもどって来ないのだろうか。詩というものは気まぐれなものである。ここにあるだろうと思って一しょうけんめいにさがしても、詩が見つかるとは限らないのである。ごみごみした実験室の片隅で、科学者はときどき思いがけなく詩を発見するのである。しろうと目にはちっとも面白くない数式の中に、専門家は目に見える花よりもずっとずっと美しい自然の姿をありありとみとめるのである。しかし、すべての科学者が隠された自然の詩に気がつくとは限らない。科学の奥底にふたたび自然の美を見出すことは、むしろ少数のすぐれた学者にだけ許された特権であるかも知れない。ただし一人の人によって見つけられた詩は、いくらでも多くの人にわけることができるのである。
 いずれにしても、詩と科学は同じところから出発したばかりではなく、行きつく先も同じなのではなかろうか。そしてそれが遠くはなれているように思われるのは、途中の道筋だけに目をつけるからではなかろうか。どちらの道でもずっと先のほうまでたどって行きさえすれば、だんだん近よってくるのではなかろうか。そればかりではない。二つの道はときどき思いがけなく交差することさえあるのである。
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いつだったか、日本人がノーベル賞を受賞されたときにも新聞だったかに引用されていたような気もする。
僕は農業をしているので、稲や田んぼの周りに暮らしている生き物(動物も植物も)に接する機会も多いような気がするのだが、時々、いや、たまにですが、この「詩と科学」ということを、思い出したりしているのです。いや、ほんとですって(笑)。
僕はもちろん理論物理学者ではないし、そもそも研究者でもなく、普通の百姓なのだが、やっぱり安全でおいしいものを、上手に、できたらたくさん収穫したい、と思ったり、考えたりするのですが、そこにはやはり、つくり方の、世話の仕方の技術というのものが、必要だと思うのです。たとえ、それが無農薬、無施肥の自然栽培であっても。
そういう農業技術のための、まず第一は、観察。というか、これしかないのですけどね(笑)。だから一度乗ったトラクタから降りない百姓や軽トラから降りずに田回りする百姓だと、なかなか観察できませんね。観察すると、なにかしら心が動いたりするんですね、土を観ても、葉を観ても、花や実を観ても、何かしら心が動くというか、感動することがあります。ここが詩と科学の出発点ではありますね。もっとも百姓の詩と科学は、理論物理学みたいにこの出発点から二つの道筋が大きく遠く離れることなく、なかば寄り添いつつあるのが、うれしいような気がしています。