現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

草刈りとヒエ抜きと「衛八処士に贈る」


最初は9時過ぎから雨、という予報だったが、うーむ。ま、降ったり止んだりでした。夕方、かなり強く降りましたが。


午前中は畦畔の草刈りと目立ってきたヒエを抜いたりする。
午後は精米など。
夜は居眠りしてしまって、夜中に起きてツールのゴールを観てしまったりする。


ここのところ唐詩を少し読み返しています。実は大学の時の恩師から、現在講義しておられる授業のレジュメというか講義録を送っていただいたのです。タイトルは「中華圏の文学と芸術」。
昔は、白居易李白、それから王維なんかが、なんとなく印象に残っていて、好きな詩が多かったように思うのですが、(たぶん当時は飲酒の詩が好きだったのだと思います。)今回、ちょっと読み返してみたら、なんといっても杜甫がいいですねぇ。
とりわけ、
贈衛八処士(衛八処士に贈る) これが、なんとも、しみじみよい詩です。って、まあ、僕が言うまでもない名篇ですけど。


僕が高校生の頃は、国語の授業は週に5時間。そのうち2時間が現代文で、あと3時間は古典。その古典の3時間のうち古文が2/3ほど、漢文が1/3ほど、というような時間配分だったでしょうか。どうも今は高校の授業で漢文に割いている時間はもっと少なくなっているようですね。高校時代の国語の先生だったW先生が、「国語がわかるようになるには、古典を勉強せんとあかん。古典をわかるようになるには、漢文を勉強せんとあかん。」と現代文の授業中におっしゃっていたのを思い出します。
さて。(ああ、漢字がネットでも見られるように新字体になっていたりします。うーむ。)


      贈衛八処士  衛八処士に贈る

      人生不相見  人生、相見ざること
      動如参與商  動(やや)もすれば参(しん)と商の如し
      今夕復何夕  今夕(こんせき)、復(また)何の夕べぞ
      共此燈燭光  此の燈燭の光を共にする
      少壮能幾時  少壮、よく幾時ぞ、
      鬢髪各已蒼  鬢髪(びんばつ)、各(おのおの)、已に蒼たり
      訪舊半為鬼  旧を訪(と)えば、半ば鬼(き)と為(な)る
      驚呼熱中腸  驚呼して中腸熱し
      焉知二十載  焉(いずくん)ぞ知らん、二十載
      重上君子堂  重ねて君子の堂に上がらんとは
      昔別君未婚  昔、別れしとき、君は婚せざるに
      兒女忽成行  兒女、忽ち行(こう)を成す
      恰然敬父執  恰然(いぜん)として父の執(ともがら)を敬し
      問我来何方  我に問う、何れの方よりか来たる、と
      問答未及已  問答、未だ已(や)むに及ばざるに
      兒女羅酒漿  兒女酒漿(しゅしょう)を羅(つら)ぬ
      夜雨剪春韮  夜雨、春韮を剪(き)り
      新炊間黄粱  新炊に黄粱を間(ま)じう
      主稱會面難  主は會面(かいめん)の難(かた)きを稱し
      一舉累十觴  一挙に十觴(じゅっしょう)を累(かさ)ぬ
      十觴亦不酔  十觴も亦(また)酔わず
      感子故意長  子(し)が故意の長きに感ずるなり
      明日隔山岳  明日、山岳を隔てば
      世事両茫茫  世事、両(ふたつ)ながら、茫茫たらん


一度分れて遠く離れてしまった友となかなか再会できない。ともすれば夜空のオリオン座とさそり座のように遠く離れたままになってしまうこともあるのに、今夜は、なんと素晴らしいことだろうか、君とこの燭台をはさんで向かいあえるとは。
青春時代のなんと短いことか。お互いに髪の毛が白髪交じりになっている。
旧友たちの消息をたずねてみると、半分はもう亡くなっている。驚きのあまりえっ!と声が出てしまい、胸の内が熱くなる。
二十年の歳月を経て、君の家にお邪魔することになろうとは、誰が知っていただろうか。
昔、別れたとき、君はまだ結婚していなかったが、それが今、子供たちがぞろぞろと私の前にやってきて列をなしている。
にっこりと笑顔をみせて父の友を敬い、私に「どちらからいらっしゃったのですか?」と訊いてくる。
そのやりとりが終わらぬうちに君はお子さんたちに酒肴を並べさせた。
夜の雨の中をやわらかい春ニラを摘んできてくれて、炊き立てのご飯に香ばしいアワが混ぜてあった。
君はしみじみ再会の難しさを語り嘆き、私はたてつづけに十杯も杯を重ねた。
十杯飲んでも、私は酔えない。君の変わらぬ友情の長さに心打たれているからだ。
明日、ここを辞してひとたび遠く山々に隔てられたなら、お互いの消息は茫々たる彼方に失われてしまうことだろう。


いやあ、泣けますなぁ。泣けませんか、あ、そうですか。あたしゃ、しみじみ、友人と二十年ぶりの再会を果たした杜甫とその景色が目に見えるようです。とくに泣かせるのが、
      昔別君未婚  昔、別れしとき、君は婚せざるに
      兒女忽成行  兒女、忽ち行(こう)を成す
      恰然敬父執  恰然(いぜん)として父の執(ともがら)を敬し
      問我来何方  我に問う、何れの方よりか来たる、と
      問答未及已  問答、未だ已(や)むに及ばざるに
      兒女羅酒漿  兒女酒漿(しゅしょう)を羅(つら)ぬ
ですな。これは、たまらん。


えーっとですね、この「贈衛八処士」は山田洋次監督の『男はつらいよ』のシリーズ第二作、『続・男はつらいよ』のなかで、恩師の散歩先生(東野英治)のところにお邪魔した寅さんに、散歩先生がおっしゃるのです。

   散歩先生 「あーあー、人生相見ズ、
         ヤヤモスレバ参(シン)ト商ノ如シ。
         今夕(コンセキ)マタ何ノ夕べ
         コノ灯燭ノ光ヲ共ニス。
         寅、分かるかこの意味が!」
   寅    「ダメだよ、先生。オレ英語全然ダメよ。」
   散歩先生 「バカだな〜、これは英語ではない、漢詩だ」
   寅    「カンシ…」
   散歩先生 「人間というのは再会するのは、
         はなはだ難しいということだ。」
         今夜はなんと素晴らしい夜であることだ。
         古い友人訪ねてきたのである。お父さんの
         友達が来たというので子供達が質問攻めにする。
         酒をもってこいと追っ払い。
         二人は杯を重ねる。

         外は雨がしとしと降っている。
         二人の話は尽きない。
         明日になれば君は
         また別れを告げて山を越え、
         私はここに残る。
         ひとたび別れれば人生は
         茫々としてお互いの消息は絶えはてる。」

        「アーアー明日山岳ヲ隔ツ、
         世事両(セジフタツ)ナガラ茫々。」だな!



ま、ちょっと主語の解釈が間違っているところもあるようなきがするのだが(笑)、ま、細かいことはいいんだ。散歩先生の喜び、うれしさが、よく伝わってきますな。山田洋次監督もこの詩が好きだったんだろうな。『続・男はつらいよ』は1969年の映画です。


はい。で。恩師の講義録(レジュメ)の最後が杜甫なんです。で、「兵車行」からはじまって、「石壕吏」「新婚別」と、杜甫の最高傑作と評判の三吏三別からそれぞれ一篇づつ紹介されています。やっぱり読んでいくと、憲法違反ではないかと言われているおかしな法案が強行採決されて衆議院を通過したことに、もう一度、なんともいやな感じをうけるんですよね。