現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

絶望の虚妄なること まさに希望に相同じい

なんだか、バタバタとした時間の流れで、ブログの更新もできませんでした。いやはや。


田んぼ仕事も、大豆の刈取りをしたり、農機の展示会にも行ったり、お米の精米や発送をしたり、この時期今さらながら畦畔の草刈りをしたり(笑)。ま、でもいいか。


ああ、足の踏み場もないとは、僕の部屋のことだな。整理整頓が必要だ。喫緊の課題は整理整頓。


バタバタ暮らすと、碌なことはないので、ぐるりと椅子を回転させて(僕の普段使っている椅子はグレーのK社の事務用回転椅子なのだ。Super Sevenにも乗ってみたいが、いい椅子にも座ってみたい。などと、思ってみる。)、本棚から茨木のり子の『倚りかからず』を出してきて、30分ほど眺めてみる。一番最後に載せられている詩。



     ある一行    茨木のり子


   一九五〇年代
   しきりに耳にし 目にし 身に沁みた ある一行


   <絶望の虚妄なること まさに希望に相同じい>


   魯迅が引用して有名になった
   ハンガリーの詩人の一行


   絶望といい希望といってもたかが知れている
   うつろなることでは二つともに同じ
   そんなものに足をとられず
   淡々と生きて行け!
   というふうに受けとって暗記したのだった
   同じ訳者によって


   <絶望は虚妄だ 希望がそうであるように!>


   というわかりやすいものもある
   今この深い言葉が一番必要なときに
   誰も口の端にのせないし
   思い出しもしない


   私はときどき呟いてみる
   むかし暗記した古風な訳の方で


   <絶望の虚妄なること まさに希望に相同じい>



ハンガリーの詩人というのはペテーフィ・シャンドル(1823〜1849)だそうで、訳者というのは竹内好のことだと詩の注に書いてありました。
「虚妄」という語がすでに難しいですね。「キョボウ」なのか「キョモウ」なのか。事実でないこと、うそ、いつわり、でたらめなさま。「虚妄」も難しいが、考えてみると、「絶望」も「希望」も思いのほか難しいことに気がつく。僕は、絶望したことがあるのか?若い時、ずっと胸に秘めていた女の子が、いつの間にか知り合いの男と付き合っていることを知った時には、本当に身がよじれるような思いをしたことがあるが、あれは、「絶望」とは、ちょっと違う気がするしなぁ。「絶望」したら、生きていけないのか。「絶望」を知らないということは、「希望」も知らないということなのか。「夢」や「希望」は、巷にあふれているような気もするが、「絶望」は巷にあふれていないような気もするので、それほど「夢」や「希望」もあふれていないのかもしれない。
僕もそろそろいい歳だし、「淡々と生きていく」ということが、ときどき、胸をよぎるのだが、と言うか僕は四十代からすでに胸に何度もよぎっているのだが、「淡々と生きていく」ということは難しいんだなぁ(笑)。煩悩の塊だからなぁ。凡夫だなぁ。まあ、それでいいんだけど。


魯迅の『野草』は学生時代に読んだはずなのだが、何にも覚えていない。うーむ。でも百姓になって、野草の強さは身にしみてよくわかるようになったなぁ。今日のところは、それでよしとするか。