現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

2017年の年頭に「松本十郎贈中山久蔵序」を現代語訳してみた。


5日(木)
久しぶりに長浜のユニクロにいく。お店の場所も本屋さんの隣になっていて、いつの間に?とつい先日驚いたばかりだ。ヒートテックの下着を買う。それからABCマートで靴を買う。考えてみたら、ここ10年くらい長靴以外の靴を買いにいったことがないような気がする(笑)。いくつか履いてみたが、どうも足の幅が狭くてよくない。うーむ、と唸ってみたが幅広の靴を見つけて購入。ここ10年くらいで日本人の足の幅は狭くなったんじゃないか?そんなことはないか。
午後は営農組合の研修会と新年会。


6日(金)
午前中は事務仕事など。午後は通帳の記帳と買い物。
風は冷たかったですが、よく晴れて陽射しが出て、クルマを運転しているととても暖かい感じがしました。


さて、松本十郎という人物をご存知の方はどれくらいあるだろうか。私も当然知らなかったのですが、Facebookのお友達のOさんが、去年の春、4月3日付けの山形新聞に載った「少年少女やまがた人物風土記163 松本十郎-北海道開拓の先人 判官さまはアイヌの味方」という記事をアップしてくれたのです。少年少女向けの記事なんですが、それだけわかりやすく丁寧にでも短く書かれた記事で、とてもおもしろく読ませてもらいました。松本十郎のことを簡潔に説明すると1839年(天保10年)に山形の鶴岡で生まれ育ち、1873年(明治6年)、34歳で北海道の開拓使本庁の主任官(大判官)となり、役人の人員整理や規律を正すなど、人民のための政治に力を尽くし、樺太アイヌ問題にも尽力したが、そのアイヌの問題で政府高官黒田清隆(のちの第二代総理大臣)と対立。明治9年、37歳で大判官をやめて故郷鶴岡に帰り以後四十年間農業と著作に生きたという人です。鶴岡に帰ってからは政治のことは語らぬ人になったということだが、農業をするにあたって土地の詳しい人にあれこれたずねながら作物をつくり、それを『農業聞書』5冊にまとめ、さらに『空語集』148冊を残しました。あ、でも私はまだ両方とも読んでいません。去年が松本十郎没後100年だったそうです。
しかし、37歳で故郷鶴岡に帰って農業かぁ、うーむ。
さらに私の恩師のS先生のブログ「照片画廊」で北海道北広島市にある旧島松駅逓所が紹介され、この駅逓が松本十郎の終生の友人であった中山久蔵の旧家であったり、松本十郎が中山久蔵に贈った書軸がいくつか揚げてあることを教えてもらいました。旧島松駅逓所の脇には「寒地稲作この地に始まる」という碑が建っているそうです。中山久蔵についても「道南で成功していた稲作は道央でもできるはずと考えて最初は苫小牧で試み さらに1871年明治4年)この地に住み着いて実験を続けました。苦心の末1873年明治6年)に赤毛種という品種の栽培に成功します。それを励まし続けたのが松本十郎でした。」と「照片画廊」で紹介されています。同時にその掛け軸も一緒に。
S先生は、今や日本で一番よく売れ、学生や研究者に利用されている漢和辞典『漢辞海』の著者です。累計販売部数100万部を突破する辞書ですが、昨年末には第四版が出ました。そんな先生から昨年の夏にこの松本十郎が中山久蔵に贈った序を訓読して書き下し文にしてみたので、読んでみてください。なにかのヒントになるかもしれません。とメールをいただきました。私は学生時代に先生に中国語や中国の古典文学を教えていただいたのですが、もとより出来はよくないし人より長く勉強してやっと卒業して職に就いたのに途中で転職して百姓になってしまったものだから、ご心配をしていただいているのだと思うのです。
私には松本十郎の墨書したものをそのまま読むことはとてもできません。でも掛け軸の直筆をコンピュータで表記できる漢字に直してくださり、訓読して書き下し文にしてくだされば、もうこれは日本語ですから、出来の悪い私にもなんとかなるだろうと思ってくださったんだろうと思います。
もちろんすぐ読みました。なんとかぎりぎり理解できたように思います。


松本十郎贈中山久蔵序」は内容もさることながら、S先生はその字の端整な美しさを称えておられます。確かに美しい楷書です。保存がよくないのか右下のところがわからなくなっていますが、コンピュータのフォントにしていただいたのがこれです。改行の場所をそろえてあります。

で、先生の書き下し文。





と、S先生の書き下し文を読ませていただいたら、「寒地稲作この地に始まる」という碑が建っている理由がわかったんですね。それから「寒地稲作」という初めて聞いた言葉もじんわり胸に沁みました。何度か繰り返して読んでいたのですが、読むたびに泣けそうになったり、力が湧いてきたりするんです(笑)。中山久蔵にあったのは開拓者魂(フロンティア・スピリッツ)そのものですね。
最新の『漢辞海』第四版も手元にあるわけですから、2017年、年頭にあたって、現代語訳をしてみようと思ったのです。書き下し文になっていれば日本語だとはいえ、やはり今では使わない漢字や熟語も出てくるので漢和辞典が必要です。お正月でお酒をいただきますので、ぼんやりした頭がさらにぼんやりしていますが、辞書を引き引き現代語訳を楽しみました。3日にでき上がったので、4日にS先生に見ていただこう、とメールで送りましたら、すぐに赤で添削してお返事をくださいました。そうして「何よりの年賀です。」と書いてくださったのが、とてもうれしかったです。以下、先生に添削していただいた現代語訳です。いささか力んだ文体になってしまいました(笑)。





明治二十七年一月の文章です。「松本十郎贈中山久蔵序」とあるように「序」ですから、基本的には離別に際して知友を励ますために贈る文章ということです。ですからそれほど気負った文章ではないのかもしれませんが、現役の百姓としては、感じるものがたくさんありました。揺るぎない開拓精神がその一番ですが、他に一つだけあげれば、それは自然観察の大切さを説いているところです。花や鳥や虫をよく観察しなさいということ。そこに安全でおいしいお米をつくるヒントがたくさんあるのだと思います。現代の農業は、とくに米づくりは、機械化が進んでいますから、機械に乗ったまま、田んぼの泥の中に入ることがほとんどなくても、収穫出来るようにもなってきています。それはそれで身体を使うことも少なくなり肉体的に楽になり大変ありがたいのですが、稲をよく観察することを忘れてはうまくいかないのではないかと思います。
北海道の稲作の栽培面積は今では新潟に次いで全国二位です。新品種も次々でてきて、いづれもおいしいと人気のお米になっていますね。中山久蔵が今の北海道の水田の様子をみたら、どう思うでしょうか。しかし、そうして開拓し水田を広げていったのは北海道だけでなく、全国に同じような苦労を重ねてきた百姓がいたはずで、滋賀なら琵琶湖がありますから、湿地を上手に利用して比較的早く米づくり広がっていったと思われますし、このあたりでは戦後の食料難を乗り切るために福良の森を開墾して水田が開かれましたし、琵琶湖にたくさんあった内湖も干拓事業でたくさんの水田になりました。それぞれの時代に、それぞれの場所で、中山久蔵がいたのだろうと思われます。
そうして現在は米の消費がどんどんと減り、減反政策、生産調整がおこなわれてきています。それも29年度まで。来年からは生産調整もどうなるのか、見通しがたたない状況です。
2017年、どうか穏やかな気候で、無事に作物がすくすくと育っていきますように。