現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

大豆の選別作業と十六夜の月と時雨模様


12日(火) 旧暦では神無月十六日 月齢15.0の満月
 終日、よい天気。午前中は事務仕事をして農協へ書類を提出。午後は精米など。
 お寺さんにお花のことを聞きにいった帰り、東の山からぐいぐいと大きな月が昇ってきた。十六夜の月ですが、月齢は15.0の満月です。


 iPhoneで満月を撮ってみるが、なかなか月は大きく写らない。それでSONYのRX100を持ち出してきたのだが、うーむ、暗いからかな、オートフォーカスがうまく利かないんですな。あらあら、と思って、それならいっそNikonのD40を久しぶりに使ってみるかと、ごそごそと出してきてタムロンの18-270mmというなかなか豪快なズームレンズを取り付けてみた。ええ、一番の望遠はこのズームの270mmなんですな。もちろん手持ちは無理ですから、簡易の三脚も出してくる。ところがD40のスイッチを入れるとバッテリーが足りないという。やれやれ。さっきまで充電器に入れてあったバッテリーなんだかが、どうも寿命なんだろうな。もうここ数年間使っていないしなぁ。バッテリーのないデジカメはただの黒い塊である。もちろん、ここでCanon New F-1に200mmをつけて持ち出してきてもいいのだが、フィルムがありませんがな。最近はコンビニでも売っていないしなぁ。というわけでまたSONYのRX100を持ち出してきて、三脚につける。オートフォーカスが利かないのでマニュアルフォーカスに切り替えて、露出(絞り、シャッタースピード)もマニュアルにする。もちろん一眼レフならマニュアル操作もそこそこ慣れているし、ファインダーをのぞけば露出計がついているので適性露出も簡単に合わせられるけれど、ファインダーのないRX100です。露出計のメーターもありません。要するに3.0型の小さなモニターに映る様子で適性露出を見ることになるんですね。ま、RX100はマニュアル露出、マニュアルフォーカスなんてことをあまり考えずにつくられたデジカメですからね。
 ま、苦労しましたが(笑)、なんとか撮影できました。でも、あとからみると、RX100は35mm判に換算すると28mm-100mmのズームなんですが、100mmの望遠側で撮っているつもりが、どうも28mmの広角で撮っていました。なぜかというと、先ほども書いたようにRX100はファインダーがなくて小さなモニターがついているだけです。するとマニュアルフォーカスだとピントが合っているのかどうか分かりにくいですね、それでRX100はマニュアルフォーカスにして、ピント合わせにフォーカスリングを回すとモニターの画像が拡大されてピントが確認しやすくなるのですが、そんなことはすっかり忘れてしまっている僕なので、拡大されているモニターを見て、望遠になっていると思ってしまったのでした。いやはや。
 ですからパソコンに画像を取り込んでみたら、とても小さな月が写っていました。それをトリミングでどんどん大きくしてみたのが、この画像です。露出はそこそこ合っていたようなので、月の表面のクレーターは写っていませんが、ウサギが餅つきしているかも、というぐらいにはボンヤリ見えるように写っていました。いやはや。来月が今夜のようにクリアな空かどうかわかりませんが、もう一度チャレンジしてみるつもりです。いやはや。(笑)


13日(水)
 今日も終日よい天気。午前中は精米など。それから乾燥機の大豆をコンテナに移す。
 午後は大豆の選別作業。


 膝のケガで長らく休んでいた宇良が序二段の百六枚目の番付で出場してきている。うれしい。しかも4日目までで2勝0敗で順調そうである。もちろんテレビの中継もラジオの中継もないので、ネットの速報で知るだけだが、頑張ってほしい。それにしても序二段の百六枚目ですか。身体の管理をしつつまずは十両をめざしてというところでしょうか。


 筑紫哲也『若き友人たちへ 筑紫哲也ラストメッセージ』(集英社新書)を読了。2009年に出てる新書です。10年前になりますね。そういう意味では古い新書ではありますが、おもしろくスラスラと読めました。


14日(木)
 未明から雨。ちょっと変わった面白い夢を見ていたような気がするのだが、雨の音で、何度か、目が覚めているうちに忘れてしまった。
 というわけで、今日は終日、雨が降ったりやんだり。午後になってもとても寒い。要するに晩秋の時雨模様の湖北地方特有のお天気です。初冬の日本海側の天気ですね。
そんなわけで田んぼに出られず、家でごろごろ。


 高橋源一郎の『一億三千万人のための『論語』教室』(河出新書)を読みはじめる。高橋源一郎による『論語』の完全訳、ということなのですが、もちろん中国文学者による訳ではないですし、ポップな現代語訳になっています。ちょっとやり過ぎだろう、という気もしますが・・・。