現代田んぼ生活 辻井農園日記

滋賀県の湖北地方で完全無農薬有機栽培米の「コシヒカリ」と「秋の詩」と「みどり豊」を作っている辻井農園のブログです。安心して食べていただけるおいしいお米をつくっています。

雨と風と『免疫の意味論』

トノサマガエル

雨が降ったり止んだり。風も強い。なんだか肌寒い。
田んぼは朝の田回りをしただけ。


多田富雄『免疫の意味論』(青土社)をざっと流し読みで読了。もちろん流し読みするような本ではないのだが、いささか難しいことも出てくるので、そういうところはざっと流して読む。
でも、面白い。免疫って一度病気になると二度と同じ病気にはならない。というようなことだとぼんやりと思っていたのだが、要するに(流し読みのくせに、要するに、などとぼんやりした頭で要約するところが、多いに厚かましくて申し訳ないのだが。)自分の体の中に「自己」と「非自己」を厳格に区別するシステムがあるということなんです。臓器の移植やアレルギーなんかの問題も免疫系の体の中の働きなんですね。
親や兄弟からの臓器の移植だって拒絶反応が起きますね、これは自分自身じゃない、他人のものだ、って。こうなってくると自己とはなにか、非自己とはどういうことか、個体の生命とはどういうものか、というような形而上学的な、哲学的な、文学的な問題にまでかかわってきてしまうのですな。うーむ。面白ろそうでしょ?そうでもない?
って、ここまではこの本の本の入り口なんですが・・・。


夜は寄り合い。


雨だったから、というわけではないのだが、久しぶりに競馬の勝馬投票券なるものをネットから買ってみた。今までは単勝とか馬連で買っていたんだけど、今日は三連単という勝馬の投票の仕方で買ってみた。ま、買ってみただけでした。ノーコメント!


日本農業新聞で昨日から始まった「日本の針路」というインタビュー記事が載るようになった。昨日が第1回で、中谷巌氏が登場している。以下の要約。

============================================

英米で発展した近代経済学においては、 TPPのような自由貿易体制が世界の全ての国に利益をもたらすとされる。しかし歴史的には、かつての英国や現代の米国のように、その時々の世界の覇権国が政治力や軍事力を背景に、自国に有利になるように進めてきたのが自由貿易の本質だ。
TPPも同じ構図で、日米同盟を盾にして、米国が日本に改革を要求する形になっている。政権交代で廃止になった「年次改革要望書」に変わるものだ。
今、米国は日本の自動車市場は閉鎖的だと言ってきているが、関税ゼロの日本で米国車が売れないのは、ろくに国情も勉強せず大型車ばかり作っているから。覇権国の言いがかりでしかない。
米国が主導した、ヒト・モノ・カネが世界中を自由に移動できるグローバル(地球的)資本主義は、多くの副作用をもたらした。欧州金融危機に代表される世界経済の不安定化、環境破壊、格差拡大、そして何よりコミュニティーの崩壊。世界にフロンティアがなくなり、成長の余地がない中で無理に成長させようとした歪みといえる。
経済成長ばかり優先させ、それによって人々の生活がどうなるかを考慮しない十九世紀二十世紀型の価値観はもう成り立たなくなった。にもかかわらず政治家や新聞各紙は、自由貿易は良いことだという古い思い込みでTPPを進めようとしている。浅はかな考えではないか。だから私は「TPPでは日本は救えない」と著書で警告した。
なんでも貨幣で価値を測る考え方から抜け出して、全く違う価値観で人類世界を再構築する「文明の転換」が21世紀の課題となる。そこでは経済成長が究極の目的ではなく、人間が心豊かに生活するには何が必要かという発想が求められる。TPPのようにすべて一律にという米国的な思想から、各国独自の文化や制度を尊重し、相互に承認するような仕組みを大きな流れとするべきだ。
日本では、福島での不幸な事故を受けエネルギー政策の転換が避けられない。原発のように一ヶ所で発電して送電する「大規模集中型」の供給から、再生可能エネルギーを中心に、地域単位で、電力を自給する「自律分散型」に変えるべきだろう。
そこに農業を組み入れると、農業の持つ役割はますます重要になる。石油がなくても農業が続けられる仕組みを作り、食料を一定程度自給する農業再生計画を地域で作る。地域内で生活の7割、8割を賄えるようにし、人と人との関係を安定化させる。家族や友人といった、互いに慈しみ合う共同体に価値をおく。自由貿易は否定しないが、適切なバランスを保つ。
TPP一辺倒ではなく、こうした社会の追求こそが21世紀の日本の安定になるのではないか。
============================================

こういう価値観の転換というだけの意見は聞き飽きた、というのが正直な感想。「貨幣で価値を測る考え方」からの脱却というような話は、70年代の公害が日本のあちこちで問題になっていた時から言われているのではなかったか。言われ続けていてもカネの価値観から抜け出せてない。小三治さんの落語のマクラで「もうカネの話はよしにしましょうよ。人間、カネじゃありませんよ。カネより大事なのはあるんですから。カネで買えないものもあるんですから。ええ。でも、そんなことは、みんなわかってるんですよ。ええ。なんだかんだっていったって、やっぱり最後はカネですよ。」と言うと客席からどっと笑いがくるんだもん。
不幸にも大きな原発事故がおきて、お金では解決できない、責任のとりようがないことが、おきているのに、放射性廃棄物の処理はどうしていいのかいまだに判らないのに、さらに原発を再稼働する。あわれというも中々おろかなり。